説教を準備する上で、かなり悩みました。何を語ればいいのかわからなかったからです。祈りの中で、神様は、私の高慢について語れとおっしゃいました。自分の高慢を語ることは、とても難しいことでした。まず、私のどこに高慢があるかわからなかったからです。このように、私は、本当に高慢な者です。

今日、「いまある訓練が恵みである」ということについて講義したいと思います。

 

私は、前の教会で訓練を受けていました。その訓練は本当につらいものでした。賛美訓練は、夕方から始まり、終わるのは朝方です。徹夜で練習しているわけです。意識朦朧となりながらみんな仕事や大学に行ったことを覚えています。3日断食訓練、徹夜祈祷、早朝の祈り、数えきれないほどのレポート、教会のプログラムを運営するための会議、路傍伝道など。

さまざまな訓練を受けましたが、私は、結局、逃げ出しました。

 

どのように訓練から離れていったのか振り返ってみます。

まず、早朝の祈り。イエス様のように朝早く起きて、神様に祈ることを宣言し始めました。しかし、ある時、台風がきました。私は台風の日にわざわざ教会に行くことはないと思い諦めました。次に、風邪をひきました。風邪をもっと悪くしたらいけないと思い諦めました。これらはある意味仕方ないかもしれません。しかし、妥協は止まらないものです。次に、雨の日は風邪をひくかもしれないから休み。昨日夜遅かったから、睡眠時間が足りないから休み。睡眠時間が足りないと不健康になります。そして、私は早天祈りに行かなくなりました。

 

また、3日断食では、何も食べないでがんばるぞ!と宣言し決めたはずなのに、水は飲んでいいことにしよう。水だけでなく、100%ジュースならOKにしよう。そして、コーラもOK。スープもOK。スープに入っている具もOK。チョコレートも口で溶かせばOK。しまいには、カレーのルーなら大丈夫となってしまいました。私は3日断食で太りました。

 

神様は本当に心を痛めていたと思います。

 

徹夜で賛美練習をしても、本業である大学の講義で居眠りをしていては、何のために大学に行っているのかわかりません。

また、徹夜祈祷会では、隅の方でこっそり居眠りを続けていました。ある日、いびきをかいたらしく、ティッシュの箱が頭に飛んできて目が覚めました。

 

私は、その時、神様の恵みを理解していなかったのです。私は訓練を途中で辞め、逃げ出しました。教会の訓練が律法的だから、この教会は異端だ、訓練の意味がわからないなど、たくさんの言い訳を抱えて、私は逃げたのです。ある人は、教会を非難して、「あの教会は異端だ」「あの教会には愛がない」と言う人もいますが、今、私はそうは思いません。ただ、私が高慢であったのだと思います。

訓練することが目的になってしまい、本当の訓練の意味を理解していなかったのです。神様の恵みがそこにあったことを今になって気づき、悔やみます。

誰かのために訓練を受けるのではありません。牧師先生のためでも、教会の誰かのためでも、まして、自分のためでもありません。ただ神様のためにやるのです。神様が私に願うから、訓練するのです。訓練がないと、神様が本当に私に願うもの、与えたいものを、私が受けとれないから訓練するのです。これは、神様が本当に私を愛するから訓練してくれるのです。

神様は私に、何かを与えようとしています。それが何なのかはわかりません。ただ良いものであることは確かです。聖書ではそれを、恵みと呼びます。

恵みは、ただで、無条件で受けられますが、それを受けとれる心がわたしにないと、恵みであることすら気づかずにゴミ箱に捨ててしまうことになるのです。

あの時、私が捨てた訓練は、恵みだったのです。

私が高慢であったが故に恵みを得ることができなかったのです。

 

私は、後悔しています。なんであの時、もっと神様に目を向けて、忠実にできなかったのだろう。どうして妥協してしまったのだろう。

私は訓練を辞めて、自由になったと思いました。これからは好きなことができると思って喜びました。しかし、神様以外のものでいくら熱心にやっても、結局、最後は虚しさだけが残るものです。

 

私はいま、アガペチャーチで神学生として訓練を受けています。このことが神様の私に対するあわれみです。私は、再び霊的訓練できるチャンスをもらうことができました。

私がこの説教でみなさんに語りたいことは、私の失敗をとおして、いま神様の訓練を受けている人がいるならそこから逃げないで全力でがんばってほしいということです。何も神学生だけに言っているのではありません。教会に礼拝に来ることが嫌になってる人がいるなら、今あなたは神様にテストされています。嫌になってる自分の気持ちを取るのか、神様を取るのか。どっちを選ぶかは自分の選択ですが、神様を取るなら、必ず恵みがもらえます。これだけは確信をもって言えます。

 

賛美を練習できることも恵みです。賛美練習に時間を取られて嫌になることがあります。でも、賛美練習をしたくてもできない人がたくさんいるのです。賛美をすることを許された者が一生懸命やらないことは、なんと恵みに反することでしょうか。

神学校のレポートにうんざりすることがあります。でも、神様の視点を持つとき、それは恵みに変わります。あなたが10年後、どこかで宣教するとき、何を伝えますか?講壇の上に立って宣教地でメッセージする人もいるでしょう。その時、あなたを助けてくれるものは何だろうか考えると、私は間違いなく昔アガペチャーチでやった講義、レポートの数々を読み返すと思います。

言葉も通じない宣教地で、心を一番通わすことができるものは奉仕かもしれません。一緒にご飯を作ったり、掃除したり、子供の世話をしたりすることで、言葉が通じなくても、神様を知らない人に、神様の愛を伝えることができると考えます。

ある人は、宣教地で捕まって牢獄に閉じ込められてしまう人もいるかもしれません。そのとき、心を励まし支えてくれるのは賛美ではないでしょうか。牢獄には楽譜も、楽器も何もありません。歌詞を覚えてないことを悔やむでしょう。

私たちが、神様のためにすることは何一つ無駄なことはありません。ですから高慢な心をすて、今の環境から逃げずに、神様に逃げましょう。

今の訓練はすべて神様にあって有益です。

神様の前で低い心を取り戻しましょう。恵みは水のように流れるとあります。水は高い所から低い所へ流れ、そこに溜まります。恵みがたくさん溜まる所は低い所です。私たちの心が低くなるとき、そこに恵みが流れ込み、やがて恵みの池になり、湖になり、やがて海となって溢れることをイエス・キリストの御名によって祝福します。