説教 夢

 

今回、お話する証は、自分が見た夢の話です。

私はあまり幻とか夢とかを語ることは苦手なのですが、この夢で自分の信仰生活が励まされたので、みなさんの糧になったらいいなと思い、説教を準備しました。

 

2年前の祈り会の時です。私はみんなが祈っている中、あまり祈りに集中することができませんでした。たぶん寝てしまったのでしょう。そして夢を見ました。それは、暗闇の中で私が歩いていると、遠くの方で悪い気配がするのです。よく見てみると、ろうそくの明かりで少し照らされている部分がありました。その照らされているところに目がありました。つまり暗闇の中で目だけが浮いていたのです。その目はとても邪悪な目でした。目のまわりには焦げ茶色の毛が生えてました。牛か馬みたいな獣のようでした。その目が何かを捜しているようでした。私は、見つかったら大変だと思い、怖くなって逃げ出しました。目が覚めると祈り会の最中でした。私は、それからしばらくたってから、セルの話し合いの時間があったので、パク先生にその夢の話をしました。すると、それはサタンだと言っていました。私は、祈り会で寝てたから、サタンに狙われたのだと思って悔い改めました。

 

それから数ヶ月たった祈り会のときでした。私はまた祈り会で夢を見ました。

暗闇の中、目の前に長い坂道がありました。私はその坂道を上っていきました。すると、大きな十字架をかついだ人が坂道を上っていました。今考えればそれがイエス様だと誰でもわかる話ですが、その夢の中では不思議で、私はイエス様だと認識することができませんでした。

私は、大きな十字架を担いでこの人は、何をやってるんだろうと思っていました。そしてあまりに大変そうなので、十字架の後ろの地面をこすっている部分を持ち上げて手伝ってあげようとしました。ところが、十字架の重さが半端ではありませんでした。どんなに力を入れて持ち上げようとしても、その十字架は持ち上がりませんでした。その人は、ゆっくりと坂道を十字架を担いで一人で上っていきました。私は、この人はスゴイと関心してしまいました。しかし、その人はとても苦しそうでした。汗が雨のように流れていました。私は手伝いたいけど、私にはどうしようもないと諦め、後ろからただついていきました。その人は一言も話しませんでした。

しばらく歩いていきました。長い坂道を、重い十字架を担いで歩いている人を見ながら、私は居ても経ってもいられなくなりました。なんとか自分もその十字架を手伝いたいと思いました。

すると、良い考えが浮かんだのです。一カ所だけ邪魔にならずに自分にも手伝える場所があったのです。それは、その人が担いでいる十字架の反対側の部分でした。その人は十字架の右側の部分を背負っていたので、私はその左側の部分に肩を入れて十字架を担ぎました。(説教の時は、ジェスチャーでわかりやすく説明します)

二人が並んで肩で十字架を担いでいる状態です。すると私にもその十字架が背負えたのです。さっきはあんなに重かった十字架が、並んで背負ったらできたのです。そして、十字架を担ぐ、その人の左手が、同じく十字架を担ぐ私の右手と重なった時でした。私はその人がイエス様だとわかりました。

その手の温もり、安心感、そして勇気がその手から伝わってきました。なんと表現していいかわからないほどの、安心感なのです。言葉では今も、言い表せません。私は、うきうきして、喜びながら十字架を担ぎました。私は嬉しくて嬉しくて、叫びだしたい気持ちでした。ただイエス様はずっと前を向いて歩き続けていました。そして無口でした。

 

二人で十字架を担いで坂道を上っていくと、急に私に恐れがやってきました。

なんと数ヶ月前の祈り会で見た、あの目が、遠く坂の上の方からやってくるのが見えたからでした。道は一本の坂道です。避けることができません。私は急にパニックになりました。そして、イエス様に叫びました。「イエス様、大変です。悪い目が、こっちにやってきます!」イエス様は、黙々とただ前を向いて歩き続けました。「イエス様!あなたが神様なら、早くあいつをやっつけてください。あいつはサタンなのです!」しかし、イエス様は私の話を聞いてないようでした。私は無視されたと思って、イエス様を非難しました。「私の声が聞こえないのですか!早く助けてください!目の前にサタンが迫って私を狙っているのです!」しかし、イエス様は黙々と十字架を担いで坂道を上るだけでした。

私は、十字架を捨てて逃げようと思いました。どんどんサタンの目は近づいてくるからです。私を救ってくれない神をどうして信じられようかと思いました。でも、私は逃げることができませんでした。それは、イエス様の手と重なった部分からくる温もりが、私は捨てられなかったからです。人間の考えではありませんでした。ただ、その温もりが捨てられなかったのです。

私たちのところへ近づいてくるにつれて、最初は目しかわからなかったサタンの顔の部分が少しづつ見えてきました。それは巨大な牛か馬のような怪物でした。とても大きな顔でした。

「イエス様、もうダメです。」と私は恐怖で縛られそうでした。

でも、私はイエス様と並んで十字架を進ませました。

 

そして、十字架の前まで、サタンが迫って来た時でした。そのとき、はっきりサタンの姿が現れました。なんと、顔は3メートルくらいある巨大な生き物なのに、胴体の部分は子豚のように小さいのです。

私は拍子抜けしてしまいました。そして、その顔は3mの牛で、胴体が子豚の生き物は、十字架に触れる前に、自ら吹っ飛んで坂道を転がっていきました。

私は笑いが止まりませんでした。そのサタンの転がる様が、あまりにも滑稽だったからです。まるでコメディのようでした。

私はとなりにいるイエス様に「やりましたね!イエス様!なんてサタンは無様なんでしょう!」と笑いながら話しました。

でも、イエス様は無口でした。

 

 

私は、この夢を見て、多くのことを教えられました。

もっとも大きなことは、十字架を背負うとはどういうことかということです。

多くの説教で、イエス様とともに歩むことが重要だと学びました。しかし、それが言葉だけで、実感をともなって、確かな信仰として私にはなかったのです。

 

最初、十字架の後ろの方を持って、あまりの重さに持ち上がらず、私は十字架を持つことを諦めました。

イエス様が十字架を担いで歩くのだから、私は、すべて神様に任せて、自分の道を歩めばいいという信仰の現れでした。自分は何もしないで、ただ神様に任せっきりの信仰の姿だったと思います。

 

次に、イエス様と並んで、十字架を担いだとき、私は、これが信仰の姿だと感じました。

自分の力では背負うことができないほどの十字架です。イエス様がいなければ私はぺしゃんこに押しつぶされてしまうでしょう。いえ、1ミリだって動かすことができないのです。

自分の力で、先に進めようと思っても、できません。ただイエス様の歩みのスピードがあるだけです。

また、疲れてちょっと手を抜いてサボることもできるかもしれません。しかし、十字架の歩みは、私を置いて歩み続けて行きます。

私には十字架の歩みの速度を決められないのです。私の都合で十字架は歩まないのです。ただ、イエス様の歩みがあるのです。

自分が背負うことでどれだけ十字架の重量を分担できたかはわかりません。でも10キロでも、10グラムでも、イエス様の負担を私が担うことができたのです。そのことが嬉しかったのです。

私は、十字架を一緒に背負っているとき、幸せでした。その重なった手から伝わってくる平安は何にも代え難いものです。その温もりとは、イエス様の私たちへの愛だとわかりました。その愛は、何にも代えられない尊いものです。この世には、それに勝るものはありません。

 

最後に、私はサタンを見て、恐れました。その恐ろしさにゆえに十字架を捨てて逃げようとさえしました。しかし、私をつなぎとめてくれたのは、十字架で重なった、あの手の温もりだったのです。

私たちの目の前には、多くの問題や艱難があります。私たちはそれを恐れます。しかし、イエス様とともにいるなら、それは問題ではないのです。この意味が私はやっとわかりました。それは、イエス様とともに十字架を担ぐことです。

私は安全なところにいて、イエス様だけが敵をやっつけてくれることはありませんでした。常にイエス様は私たちとともに最前線にいます。もっとも激しい戦争の中にともにいてくださるのです。

私はサタンが目の前に近づいてくるとき、恐怖のあまりイエス様を非難しました。何もしてくれないイエス様に落胆し、怒りました。しかし、それは私の信仰がなかったからです。イエス様の目はいつも前を向いていました。イエス様は恐れてはいませんでした。

イエス様とともに歩んだ結果、サタンは見かけ倒しで、顔ばかり怖くて、胴体は子豚のような間抜けな存在だということがわかりました。私たちの問題や艱難も同じではないでしょうか。私たちは必要以上に恐れたり、不安になったりします。しかし、イエス様とともにその壁を乗り越えるとき、その壁はちっとも壁ではないことに気づきます。サタンは私たちに恐怖や不安を演出しますが、その正体をイエス様はご存知です。

 

十字架は確かに重いものです。しかも坂道を上らなければなりません。十字架を運ぶのはイエス様に任して、その後ろを歩む安全な信仰生活をしている人は多くいます。私もそうです。

どうして重い十字架を背負って坂道を上らなければならないのでしょうか?

ただ、坂道をイエス様の後ろからついていく信仰でさえ大変なことです。しかも、目の前からは、サタンがやってきます。

 

でも、イエス様とともに十字架を背負わなければ味わえないものがひとつありました。それは、一緒に担いだときに触れたイエス様の手の温もりでした。

私がサタンを目の前にした時、私のすべての力、プライド、信仰は消え去りました。しかし、ただ一つだけ残ったものがありました。それは、イエス様のあの温もりです。そして、その温もりが私を信仰へと引き戻してくれました。

私は弱い者です。でも、この世にはない、あのイエス様の愛を知る者です。

イエス様とともに十字架を担いで、この世の問題、艱難、サタンに打ち勝っていく私とみなさんになることを主イエス・キリストの御名によって祝福します。