2012年11月22日木曜日賛美礼拝

 

私を初め、私たちはよくこのような言葉を口にします。

「よくわからないよ」わからないと言う言葉を口癖のように言う時が多いようです。

ですが、実、本当にわからない時もあるんです。

しかし、一方では、わからないと言う言葉を口癖のようにしゃべり出した時、

既に自分の良心は知っていて、分かっているってことなんです。

ただ、どうしたらいいのか、よくわからないんです。

わからないという言葉は、

特に、失敗してしまったときよく見られる姿ではないでしょうか。

良くないことって知っていて、良心もそれをわかっているのに、知らないふりをしているのです。

しかし、「わからない」というのがわからないから、

済まされるわけにはいかないということです。

私たちの問題はわからないから何気なく見過ごし、

ふたをしておくことにあると思います。

わからない、知らないなのに、知ろうとわかろうとしないところに

私達の問題があるのです。

実際、 生活の中でわからない、知らないものがあるなら皆さんはどうしますか?

たぶん、とりあえずインターネットで検索することに慣れていると思います。

 

手っ取り早く調べられるからですね。 

私たちがいちいち、本を調べて知ろうとしなくても 

重要な単語を打てば知りたいことだけ、簡単に知ることが出来ます。 

しかし、私たちの命と繋がっている霊的なことに対しては、私たちが知ろうとする心やわからない知らないことを解決しようとする心が小さいということです。 

聖霊様に頼り、聞いて知りたいと願う心、

聖書を調べて私の良くない点を点検する姿、

祈り続けて、自分のことを振り返ってみようとする心が足りないということです。 

わからないから、知らないから、

じっくり調べようと思うよりも、勝手に先走ってしまう悪い習慣があります。

それなら、なぜわかろうとしないのでしょうか。

それは、私たちの失敗、私たちのくない姿したいというこれらのものがされることが嫌だからです。 

自分の恥ずかしい姿を露にされるのが嫌だからです。 

嫌で隠す姿は、主の御前で言い訳や弁明する姿と同じです。

私を愛し、私を私よりも知っておられる主の御前で私を隠そうとするのは、 

まるで、罪を犯してしまったアダムとイヴの姿のようなものです。 

しかし、自身の姿をあらわにしていくと自分自身の姿を受け止めようとする心が生じてくるのです。 

簡単に言うと心を開き始めたら、受け止められる心になれるということなのです。

自分の良くない姿を認め、自分の良心の反応するところに、偽るのでなく、素直に受け止められるようになれるということです。 

そしてそのような私のへりくだった心になれたとき主は、

私の中で働き始めると信じます。

ヨハネ黙示録3.20

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

わからない、知らないという言葉が口癖で出てしまったとしても、良心の声に、聖霊様がくださる心に 

耳を傾ける私と皆さんになれますよう、イエス様の御名によって祝福します。 

聖霊様のくださる心にひれふすことが出来ることを願います。 

へりくだった心で主がくださる心について行く私となることをイエス様の御名によって宣言します。

 

これからは、しらないことやわからないことを見過ごしたり、

ふたをしておくのではなく 

もっともっと主の御姿に似て行く清い姿に変わる 

私と皆さんになれますよう、イエス様の御名によって祝福します。

 

訳 馬淵 あい