ハレルヤ!この証が主だけをあがめ、賛美する証になることを願います。

 

私には学生時代に友達や先生から付けられたあだ名があります。

女の子の友達から付けられたあだ名は‘そうだね’というあだ名でした。

良く言われようが、悪く言われようが、他人事のように聞いているということで付けられたのです。 

そして、男の子の友達から付けられたあだ名は

憎いことばかりやるから憎いけど、憎めないという意味で韓国語で「カルミ」でした。

そして、先生から付けられたあだ名もあります。

それは野生馬です。

どこへ跳び走り出すか分からないし、やりたいならやるし、やりなくなければやらない自分勝手な私を

見て付けてくれたのです。

 

神さまは私をアガペチャーチに導き、野生馬のような私をイエスさまの御恵みでしっかり括り付け

下さいました。

そして、主の御恵みを体験した私に聖霊さまは尋ねて来られました。

私について来られるの?

あまりにもやさしい御声で、絶対に拒否することができない主の御声でした。

当時、私はイエスさまについて何も知りませんでした。

そうにもかかわらず、その時、私に注がれた主の愛と恵みがあまりにも大きくて、涙を流しながら

“アーメン!”と答えたのです。

主の道がこんなに狭い道であることを当時に知っていたのであれば、

確かに“アーメン!”と答えてなかったでしょう。

神さまはそれを知っておられ、私を御恵みで括り付けてくださったんだなぁと今になってみて悟りました。

 

私には信仰生活の中間地帯というのがないです。

ワンステップずつ信仰生活を踏んできたのではなく、主を信じて1-2年も経てないうちに神学生に

なりました。

私の霊的な部分を聖霊さまから牧師先生を通して指摘されるたびに、

私はどういうことなのかよく理解することができませんでした。

指摘されて私の心のそこからはこういう思いがわいてきました。

 “私はそうじゃないのに、

何であいふうに言われなければいけないんだろう。”

 “そんな悪い心は持っていないと思うけど、私って霊的に悪いってこと?”

こういった疑問や疑いの心、悪い心がわいて来るのでした。

それを知った牧師先生から“あなたの考えを切り捨て、そこに神さまの御言葉で満たしなさい。”と

言われました。

そして、シン権事さんと一緒に礼拝を捧げなさい。と言われました。

そして、家に帰ってきました。

しかし、この悪な思いは私の中から切り捨てることができずにいました。

私はそうじゃない、違うでしょう、なのに、なぜ

そこまで言われなければいけないだろう。

私の頭と心はこういう思いでいっぱいでした。

その時、この状態が続くのであれば、本当に大変なことになると思いました。

それで、なぜああいうふうにおっしゃったのかは分からないけど、とりあえず、ひれ伏してみよう。

とりあえず、主の御前に伏して主に答えをもらおうと思いました。

その時、主は主の前にひれ伏すように、私の心をとらえて下さいました。

そして、すぐに牧師先生に連絡をしました。

“牧師先生がおっしゃったように、私には中間がありません。その間を御言葉で満たして下さい。”

そして、牧師先生は、シン勧士さんと礼拝をささげるように勧めて下さいました。

主に感謝するのは、私の悪い自我を主に委ね、すぐ主の御前に伏したら、

主は一つ、一つ、回答を早く解けてくださったことです。

どうして牧師先生の話が、自分には理解することができなかったのかについても教えてくださいました。

私が理解できなかったのは当然でした。

牧師先生は心のそこを見て、根本的な悪い心を指摘していたからです。

根本的に悪い心を牧師先生は指摘したのに、

私は自分の外側ばかり考えていので、牧師先生の話の意味が分からなかったのでした。

 

自分も知らない私、

私の奥底に隠しておいた罪、

神さまは隠しておいた私の罪を一つ、一つ 引っ張り出し始めました。

私、自身も知らなかった罪が明らかにされ、改めて悟りました。

 “これだったんだ!”“こんな罪があったなんて!”

 “牧師先生がおっしゃったのはこういうことだね。”

私自身も知らなかったこの罪を持ち続けていたのであれば、

きよい主の御前にどうやって進み出ていくことができるのでしょうか。

私の罪をあばかれてくださった主に感謝します。

そして、早く主の御前にふせるように導いて下さったことに感謝します。

罪が暴かされて、恥ずかしい思いもありますが、

主の御前にもっと近く進んでいくことができるのであれば、私の内側にあるすべての罪が暴かれることを

願います。

きよく、新しく生まれ変わった姿で主の御前に出てゆく私になることをイエス・キリストの御名によって

宣言します。

頭、心では、理解ができなくても、まず主の御前にすぐ伏していく、死んだ者になる私と皆さんになることを

イエス・キリストの御名によって祝福します。