ある日、私はこのような祈りをしました。

「主よ!私に願っておられる事があるなら、一つだけおっしゃって下さい!

その一つはどんな事があっても、どのような代価を支払っても、

必ずその一つだけは、やってみますから!

神様を信じますと口では告白し、自分なりに信仰生活をしてきましたが、 

今まで、神様に何一つ、ろくに捧げたものもないし、

神様に喜ばれるような事を何一つしていない私でした。 

だけど、はかり知れない主の恵みと愛の中で、このように生きている事に本当に感謝し、

また申し訳ない心で捧げた祈りでした。 

しかし、しんとしていて、何の返事もありませんでした。

それでも、続けて祈り、私に願っておられる事を聞き取ろうとしたら、

「自分に死んでくれよ」という思いが湧き上がってきたのです! 

「ローマ人への手紙53-4節」です。

そればかりではなく、患難(かんなん)さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 

この御言葉は今まで、家庭礼拝を通して3-4回頂いた御言葉です。

主が願っておられる姿に整えられ、変えられるために、

御心による訓練の環境に置かれる度に、必ずこの御言葉が与えられてきたのです。 

振りかえて考えてみると、神様が私に願う事はただ一つだったんだ…

自分自分に死ぬことなのだ!!!

訓練の場である環境が変わっているだけであって、いつも主が願っておられる事は、

「自分自身に死ぬ事!」ほかにはないんだな…。 

信仰もなく、弱い自分のことを、誰よりよく知っておられる神様が、

同じ御言葉を何回も下さるまでに、最後まで私を愛し、

決して私をあきらめない神様の愛に感謝をしていながらも、 

しかし、一方では、こんなにも砕かれない自分をみて、

主に合わせる顔もなく、申し訳ない心でいっぱいでした。 

私は、私の環境と関係なく、主とともに歩み、いつも喜んでいきたいと思います。 

自分に完全に死んで、主の中で、

必ず希望を見出して(みいだす)いく私になる事を主イエス・キリストのみなで宣言します。

 

主とともに、山の頂上に登り、勝利の旗をかかげる私になることを、

イエス・キリストの御名により宣言します。 

主の中で、忍耐を働かせ、品性が練られ、

主が下さった希望を見出して(みいだす)いく私と皆さんになる事を主の皆により祝福します。