私は、一番目の子供は、初めての子育てということで、子育てがよくわかりませんでした。
目と耳と口は子どもに集中していて、ささいな子どもの失敗でも、私は敏感に反応したものでした。

例えば、子供が言葉をしゃべるようになってからは、人に挨拶をさせるんです。
すると、子供は体調や状況によって
ある時は、腹に手を置いて、大きな声でこんにちはと挨拶をする反面(はんめん)、
いやいやしながら、私の後ろに隠れてしまう時がありました。
すると、子どものしつけがなってないと言われるんじゃないかと、それが嫌だったんですね
だから、挨拶ができないとお仕置き(おしおき)をするものでした。
また、ものを落としたら、 あら!こうやって手で取らなきゃいけないでしょ!
"なんで、こうしたのよ"
このように、敏感に反応してしまったものでした。

ところが、二番目の子育ては、周り子供たちを観察しているうち、
わが子が、挨拶ができないことがあっても、
それは、体調や状況によって、子供の態度が変わるということを理解するようになりました。
それで悟った事は私って子どもの足を引っ張ることをやってきたんだなとわかったのです。


これはだめだよ!
ミルクを布団の上で飲んだらこぼしちゃうよ!
それじゃ本当にこぼすわよ。
こうやっちゃいけない!
ああやっちゃいけない!
ハミン!こうすればこうなるんだから!
よくしつけを付けようと、お母さんのいないところで、失敗することがないように、
子どものしつけができてないと言われないようにと思って、子どもの足をひっぱることをやってきたんだなと思うようになりました。

足を引っ張ることばかりすると、余計に倒れてしまう確率が高いものなんですね。
足を引っ張られて、やっと失敗しなかったとしても、次には失敗して倒れてしまうと思います。

本当にいけないことは、引き止めるべきですが、足を引っ張り過ぎると、
子どもの自由がなくなってしまいます。

結局、恐れて何もできない子になってしまうことでしょう。


信仰においても同じだと思います。
自分が罪を犯すと心地(ここち)が悪くなります。
この前も言ったおうに私は清くなろうともがきました。
聖書に語られているすべての教えを守ろうとしました。
聖書を休まずに読んで、祈り、清い言葉と行動をしようと一生懸命努力してみました。
ところが、努力すればするほど、足にひっかかるものばかりでした。
清くなるためのもがきが、むしろ私を倒してしまう「つまずき」となったのです。

倒れてしまうと、これ見ようがと、悪しきものどもの罪定めが始まり、倒れた私をさらに挫折へと追い込むのです。
すると、神様との関係が気まくなったという思いと感情が、本当のように思ってしまうのです。
神様は遠く離れてしまったという感情で心を満たしてしまうのです。
すると、喜びも感謝も主の恵みもと遠く感じてしまうのです。

しかし、みなさん、騙されないでください!
私のように騙されて、心を暗くしていくのを、止めなければいけないのです。
それが結論でありません。
きよく生きようとすることは、聖書に書かれているように生きようともがくのではなく、
赦しを受ける価値のない罪人ですが、主の義の衣を着せられ、義とされたということを、信じる信仰が大事なのです。
私たちが清く生きようと頑張れば頑張るほど、足を引っ張られてしまうことを知っていた使徒パウロは、

ローマ7章で、このように告白しています。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか

心は神様のみ言葉に従うことを願っていますが、従順できない肉の思いがあり、自分の限界を思い知らされているということです。
しかし、自分を引き下ろす罪によって倒されてしまったから、すべてが終わるわけではありません。

なので、その次の節でこのように告白しています。
私たちの主イエス․キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、

肉では罪の律法に仕えているのです
ですから、罪から救ってくださった神様に感謝するようになり、喜ぶ事ができるのです。

私が!清く生きようとすればするほど、
神を信じること、狭い道を歩く事がとても難しいことだと思いました。
狭くて大変な道、天国は、誰もが行けるところではないと思いました。
ところが、この考え自体が自分の力で何かをしようとする高慢であることを知りました。성경의
聖書のみ言葉を純粋に信じないこと、自分の力で救いを達成しようとすること、それは高慢なのです。
また、自分の足を引っ張るのは、結局自分自身であったことに気付きました。


それを認め、自分ではできないという告白からすべてが始まるということがわかりました。
レビ記26章13節のみ言葉です。
わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き(くだき)、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた
私のくびきの横木を打ち砕き、まっすぐに歩かせる神様を信じる信仰で歩みたいです。

自分で足を引っ張るものを置いて、倒れてしまうのでなく、
十字架によって足を引っ張るものを取り除いてくださった神様を信じます。
神様がすでに用意してくださった十字架を受け入れ、
考えや感情によって忍び込んでくる足を引っ張るものを拒否し戦っていきます。

純粋な心、謙遜な心で神様のみ言葉を受け入れ、主の恵みの中にいる事を感謝し、喜ぶ私と皆さんになる事をイエスキリストのみ名で祝福します。