ハレルヤ! この証を通して主の前にの悔い改めの心をもって進むことを願います。

今年の初めに私は、身、つまりシングルにする証をしました。

どうして牧師先生はシングルに、やたらシングルと呼ぶわけ? 不愉快だし、に要らないわ。

と言うものの、自責の念を持って、先生のことを恨んだことがありました。

その時、ある姉妹が私にこう言ったのです。

先生のことを知って行きながら、先生の中にある愛が分かってきて、

いまは先生のことを愛するようになったという話をしました。

私は今まで牧師先生のことを信して、どうにかして、ついて行こうとは思っていったけれど、

愛しているとは考えたことはありませんでした。

それはまるでこのような人と同じなのです。

地獄に行きたくないから、主日に教会礼拝加する人です。

私は神を信じているから、信仰で天に行くもんでしょう。

と口だけで生きているクリスチャンと同じ姿なのです。

その中には神を愛する心は一つもなく、自分の利益のために信じるのです。

自己中心的な信仰で、イエスを天のチケットだと思い、利用する者と同じです。

私も彼らとわらないことにがづきました。

に神を、主のしもべを愛してなかったことをえられ、悔い改めの心を持った時、

はこのように尋ねられたのです。あなたはイエスを愛しているのか?

そして主の戒めを思い出しました。

私たちが知っているように、第一の戒め、あなたの神である主を愛せよ

第二、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

私の身の周りの人も私自身のように愛せよと言うのに

まして主のしもべとは、神が直接油注いで選ばれたものだ。

別されたレビ人である。

ただ人によって立てられた者ではない。

熱心に勉して優秀な成績だけでは、主のしもべになるものではない。

が自ら選んで、油注いで主のしもべとしてたてられたことを悟らせて下さいました。

ですから、むやみに私が判しても、疑ったりしてはならないのです。

時には理のみ言葉で、自分の心が痛むようなことがあっても、分をくするような象ではないのです。

それはまさに神を自分の小さい頭で判して疑うことと同じなのです。

それはとても愚かで、恐ろしい罪であることをえられました。

そして悔い改めなければ、その道の終わりは永遠の死であることも付されたのです。

 

列王記下に見れば、軍のナアマンがエリシャを訪ねてきて、らい病を治してもらいます。

そしてナアマンが贈り物を渡そうとしたら、エリシャは受け取りませんでした。

それを見ていた、エリシャのしもべ、ゲハジはナアマンの後を追って行き、

銀二タラントと、晴れ着二着をもらってきて、家の中にしまいます。

このことを知っていたエリシャは『ゲハジ、あなたはどこへ行ってきたのか』と、聞きます。

するとゲハジは『しもべはどこにも行きませんでした』と、うそを付きます。

するとまたエリシャがこう言います。

 列王記下527

ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。

彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て

 

ゲハジはむさぼり、ったことによって自分自身はもちろん、

子孫に至るまで、永遠にらい病にかかるという呪いを受けるようになりました。

そしてゲハジはもう一つの罪を犯しました。

ゲハジはエリシャのことを神のしもべとして認識し考えていなかったことです。

ただ人間的に自分の主人だと考えていました。

それで、こっそり家の中にして置いたことを、誰も知らないだろうと考え、を付いていました。

は神のしもべであるエリシャを通して語りました。

すると、すぐに目の前で、らい病で罰されました。

私たちはゲハジのような愚かな姿で、死の道に行かないことを願います。

ただ、主のしもべに無件の服するのではありません。

主のしもべを立てられた神を知って、その前にひれ伏すべきことと信じます。

を愛するがゆえに、神がたてられ、油を注がれた主のしもべを愛するのです。

そしてその愛によって、順や服することができます。

を愛するがゆえに、神がたてられた主のしもべに順する私になることを宣言します。

ガラテヤ人への手紙6:7

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

 

はあなどられるような方ではありません。

の前に恐れる心をもって、神がたてられたしもべに順し、

完全なる救いに達する私と皆さんになることをイエスのみ名で祝福します。