ハレルヤ

 

私は初めてアガペチャーチに来たその日に賛美チームに入りました。賛美という言葉の意味もわからなかったのにです。私はただ歌が好きなだけでした。信仰は全くありませんでした。今思えば大変恐ろしいことです。あり得ないことです。信じられないことです。私は長い間、これはキムテオン先生が私に信仰生活をさせるための企みだと思っていました。そして私はその計画にまんまとまるめこまれたのだと思っていました。

 

賛美の練習に本格的に顔を出すようになって、賛美チームというものがどういうものか、その実態がわかってきました。そして何度後悔したか知れません。主日を守ることさえ、信仰の無かった私には難しいことでした。さらに、そのための賛美練習に、日曜の午後や、土曜日の私の自由な時間を奪われるなんて、気が狂いそうでした。

 

賛美の歌詞は私にとっては意味のわからない空っぽの言葉でした。音楽に思いをのせるといっても、その思いが空っぽでした。日本語の歌詞でさえ、そのように意味がわからなかったのです。ましてや韓国語の歌詞は、呪文でした。そのハングル語の歌詞を当時はほとんどギル執事が赤いペンでカタカナでルビをふって下さっていました。それが終わらないと全体の賛美練習に入れないため、他の賛美チームのみんなはそれを待っていました。

 

自分一人が加わることで賛美チームには大変なリスクを負うように思えました。練習中の通訳も必要です。ルビもふらなければならない。しかもルビがふられたからといってすぐに歌えるわけではありません。発声方法も違う。だから私はマイクで歌うのは嫌い。不平不満のかたまりのような、信仰の無い私をみんなが助けて下さいました。ありがたいと思いました。同時に申し訳ない思いでした。

 

一年くらいは、賛美のみことばと自分の心はほとんど一致することはなかったと思います。いつまでこの状態が続くのだろうと思いました。いつになったら神様に向かって本心で告白する賛美となるのだろうと考えました。

 

信仰を求めました。これ以上自分の心を偽って賛美をささげるなら、私はここにいるべきではありません。なぜ私をここにおいたのですか?

 

以前は賛美の練習中に何度もそういう思いにとらわれ、よく泣きました。そして賛美チームのみんなを困らせました。みんなを困らせたくないと思って、教会を出てビルの裏の方で休憩時間に泣いていたこともありました。あまりにも泣きじゃくって、笑顔で聖殿に戻るのは難しいときがありました。

 

想像してください。若い女の子が歌舞伎町のビルの隙間で何も持たずに泣いているのです。おまわりさんに補導されかけたこともありました。「今頃、練習を再開しているに違いない、でも主よ、戻れません。私はどうしたらいいのでしょうか。」泣きたくないのに神様に話しかけると涙しか出てこないのです。するとそのときはっきりと主が下さった思いがありました。それは「練習に戻りなさい」という言葉でした。厳しい声ではありませんでした。とても優しい声で、それがあなたにとってはベストなことなんだよ、とやさしく諭して下さるようでした。私は逆らうこともできず、ぼーっと教会に戻ったのを覚えています。

 

教会では賛美チームが「リバイバルを見よ〜!」と歌って燃えていました。泣いて歌えない私の横で恩仙執事が「つーよく!おおしく!信仰もって〜!」と私の座っている膝をたたくのです。

 

・・・長くなりました。賛美チームでの私の通って来た試練の過程を話すと、こんなことばかりです。恥ずかしいことが次々と出てくるのです。

 

今はわかります。すべてが、本当に全てが神様の計画であったこと。私を十字架にかけるための最短の方法であったこと。ハレルヤ!!

 

人によって難しく思うところは違うでしょう。人によって信仰の壁のありかも様々でしょう。私には、賛美を通して与えられた数えきれないほどの信仰の壁。忍耐していたのは私ではありません。賛美チームのみなさん、ハングルを教えて下さった方々、牧師先生。そしてイエス様です。今まで、どんなことがあっても私を諦めず、忍耐を持って、哀れみを持って、導いて下さったのです。

 

賛美の力は私たちの想像をはるかに超えます。私の大好きな賛美はダビデの告白の賛美です。「生けるかぎり主を賛美し 我が神 主を褒め歌います 我が主を思いめぐらす 我が魂喜ぶ 我が魂よ 褒め歌おう 我が魂よ 称えよう」

 

この賛美を歌うたびに私の魂が反応するのがわかります。聖書も信仰もわからなかった私が、この御言葉、この賛美には反応したのです。ああ、私の魂が叫んでいる。私の魂がこんなにも主を褒め称えたがっている。私の魂が叫び求めているこの先にあるのが造り主である主なのでしょうか。私の魂は正直でした。まっすぐにそこへ行きたがっていました。とても乾いていたのでしょう。生ける水を求めていたのです。

 

ただ、ただ、主の哀れみにより、賛美の奉仕をさせて下さった主を、褒め称えます。これからは、ただ、主の聖い道具とならしめて下さい。主がおっしゃったことだけをできるようにさせてください。罪の多い私を、賛美を通して聖めて下さり感謝します。これからは神様の栄光となりたいのです。

 

みなさん、こんなどうしようもなかった私が、主の哀れみにより、今ここに立っています。これはみなさんにとって勇気の証とはなりませんか?生きている神様の証拠としては不十分ですか? だから私たちは元気を出しましょう!そして、両手を挙げて主を賛美しましょう!何から始めたらよいかわからなかったら、私と一緒に、主を賛美することから始めましょう!賛美の歌詞の意味がわからなくても大丈夫です。楽譜が読めなくても大丈夫です。音痴でもかまいません。

 

いつでも、主が生きている証となる私となることを主イエス・キリストの御名によって宣言します。そして、子どものような心を持って、魂に正直に、主を称え賛美する私とみなさんになることをイエス・キリストの御名によって祝福します。