マタイによる福音書1315

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。

 

マックドナルドでアルバイトをしていた時のことです。

一番優しく仕事をえてくれるのは店長です。

私は、しょっちゅう注意される一つのことがあります。

それは、お客さんの注文をさえぎらないで、言葉を言い終わるまで聞きなさいということでした。

例えば、こういうことですね。

お客さんがビックマックセットを下さい!と言います。

そして、私をじっと見つめるんですね。

すると、私は聞きたい事が一杯浮かんでます。

ポテトセットのサイズ、み物の種類とサイズ、他に注文はないのか、店で召し上がるのかなどなどですね。

しかし、最後までお客さんの注文を聞く事が原則となっています。

なぜなら、それが一番早いし、

また、他の注文にもつながり、り上げにも係があるからですね。

すべての注文の時間は決められた時間で終わらせないと減点になります。

それで、私は心があせってきます。

注文を考えているお客さんに聞くんですね。

しかし、聞き方が間違っていたのか、よく注意をされました。

他の店員は、皆お客さんに聞いているのに、なぜ私だけに聞いていなさいと言うのか。

よくよく考えながら、を付けて何週間きました。

ところが、私より一つ上のトレイナえられ、付いたことがありました。

私がお客さんの注文を聞き間違えっていたことがわかってきたのです。

それからは、お客さんとのやり取りをする自分を注意深く察してみました。

注文の話でなく、一方的に注文を要している自分に付いたのです。

 

それで、お客さんの唇だけを見ながら注文を受けました。

しかし、ひどいほど、言葉を聞き間違っていることがわかりました。。

ショックだったけれど、祈りながら仕事を頑張りました。

そして仕事が終わった後、祈り中、えられた事がありました。

言葉を聞き間違えているのは、肉的な事だけではなかったんです。

的にもつながっている事だということが分かりました。

 

人の言葉もきちんと聞き取れてないのに、

どうやって聖霊様のみを聞き取ることができるんでしょうか。

それは、まさに心の問題であることにが付きました。

自分のい心によって生み出された結果だったのです。

イエスの時代の人は、神のみ子であるイエスを直接に見て、またっていました。

イエスからえも聞くことができました。

しかし、イエスはすべての事を例え話で語りました。

律法者、バリサイ人、大祭司長たちは、イエスがどんなみ言葉を語っても非難しました。

彼らは、こうとする心ではなく、判し裁こうとする心を持っていました。

イエスの弟子たちは『この例え話はどういう意味ですか?』と

その意味がになって訪ねました。

しかし、バリサイ人はイエスを試そうとする質問ばかりしました。

そして、イエスの返す言葉の中、自分の心が刺されるような事があると、石をもってイエスを打ちつけようとしました。

彼らは、イエスだけではなく、イエスによって癒された多くの病人達と、奇跡も信じようとしませんでした。

目で見ても信じないし、耳で聞いても疑っていました。

そして、彼らは律法通りに行わないことを罪の名目として、イエス締め出していました。

一言でいうと、彼らは、い心を持っていたということです。

良い思いで聞こうとしなかったので、何回もイエスに質問しながらもイエスの答えを聞こうとはしなかったのです。

主のみ言葉は耳が遠くて聞こえない事でもないし、目が見えなくて見えない事でもありません。

こうとしないから聞こえないし、見ようとしないから見えないだけなのです。

しかし、これは必ずしも、神との係にだけ、限られたことではありません。

のかたちに似せて創られた人は、人間係の中、映し)される主を見出す(みいだす)ことができるということが分かりました。

人の言葉を聞こうとしない者に、果たして、神には心が開かれることがあるでしょうか。

い心は(器の種類を問わずにして)ふたをしている器のようなものです。

ふたを開けない限り、その(には何にも入れる事はできないのです。

というふた、自我というふた、や不信仰というふたを開けてはじめて、

その中に何物でも入れることができるのではないでしょうか。

イエスの時代に、多くの目の見えない人、耳の聞こえない人、口のきけない人がイエスの前で叫びました。

ダビデの子孫イエスよ!私を哀れんで下さい!

イエスは振り向き、彼らにこう訪ねました。

『私に何をして欲しいのか』と。

彼らは答えました。

『よくなりたいです』と言います。

すると、イエスは言われます。

『あなたの信仰の通りになれ!』

 

的に目が見えず、耳が聞こえない人である事を悟らせて下さった神に感謝します。

イエス!私はよくなりたいです!

イエス!私は聞きたいです。

私を哀れんで下さい!

主に切に祈り、主にいていただける信仰に硬く立つ私になることをイエスのみなによって宣言します。

主に喜ばれる良い心を持って主のみを聞き、

また、的に悟り、癒され、新しく作りえられる私と皆さんになる事をイエスのみ名で祝福します。