人々は5つの感覚を持って生きています。

目で見る視覚

耳で聞く聴覚

においをかぐ嗅覚()

口で感じる味覚

皮膚で感じる触覚()

このように五つがあります。

ここにいる皆さんはこの五感を全部持っているんですよね。

しかし、この中で一つでも失われたらどうなるのでしょうか? 

昔見た韓国ドラマのテジャングムというドラマで主人公であるチャングムが味覚を失われる内容がありました。 

料理する味覚ってはあらゆる記憶感覚使って料理をしていたら、

後には味覚すことになるという内容だったと思います。  

のおさんは十年過ぎ前に脳手術を受けては、嗅覚()完全われました。

ご飯を作る時に家族けられ母のわりにいをかいでもらっていました。

とても大変でした。

それでも私の母さんは後天的なものでましだったんですね。

しかし、先天的に音が聞こえない人や、目が見えない人がいますね。

先天的聞こえない人にピアノの自然音、

人の声のようなものを説明することはとても難しいのでしょう

そしてまれてから目が見えない青色黄色説明しようと

とうてい説明にならないと思います。 本当に難しいです

たちが信仰生活にすることにおいて、なくてはならないことがまさに信仰なのです。

信仰を持って信仰の目で見ることと信仰がない目でみること、

その結果は天と地のような差がでるのでしょう。

信仰がある人には目に見えるように信じられる事が、

信仰がない人には信じられないのです。

それでヘブリ人への手紙111節ではこのように言っています。

信仰んでいるがらを保証し、えないものを確信させるものです。

 

信仰があるゆえに神様の働きがえてじられることになるのですね。

また、そのように信仰があるから神様働けるのです。

 

イエス様は信仰がないのを見て、ただ信仰がなくて残念だなと言っていません。

むしろ信仰がないのをイエス様は叱られました。

そして、また信仰が良いことは褒め、聖書に記録されました。

ある牧師先生がこのような話をしました。

神学校に入ったばかりの1年生は何も知らないのに自信感だけが溢れているんですね。

それで賜物を求める時に、癒しの賜物や、予言の賜物などを求めるんだそうです。

2年生の時には御言葉の賜物、3年生の時には愛の賜物のようなものを求めるんだそうです。4学年になると、4年生になるまで色々な訓練の中でヘリ砕かれ、本当に何が重要なのかを少し分かってくるんですね。

それで皆が求めるのが信仰の賜物だという話を聞いて笑った事があります。

 

信仰で主のみ言葉ったことが沢山あります。

それによって神様が望んでいるぶことができなかった事も多くありました

信仰があるかに見えて、実は信仰がない姿を見て、主のしもべや、回りの人々を驚かせたことがたくさんあります。

このような私をみて、もうすぐ神様が来られるのにこんなに信仰がなくてどうしようと、

しかも普通の信仰でもなく、天に引き上げられるような信仰を持たなきゃならないのにと言うもあります

この前、担任牧師先生は自分の信仰が名品信仰だと思う人は手を上げて下さいと言いました。

その時に、キム牧師先生と朴牧師先生だけが手をあげていましたね。

それで、二人でハイタッチをしていましたね。

とても面白かったのですね。

いつも楽しい雰囲気の中で真理の御言葉を伝えて下さる牧師先生をみて、私の信仰を省みました。 

今は神様が来られるまであまり残っていない終わりの時です。

終わりの終わりの時です。

私の偽物の信仰を捨てます!

行いがある、生きている信仰で主の清い日にけいきょされる私になる事をイエス様のみなで宣言します。

救いを受けるべきの信仰を持って、天国の命の本に記録される私と皆さんになることをイエスのみなによって祝福します。