ハレルヤ。

この証をただ、主の栄光のために捧げます。

 

先日、朴牧師先生が脳の手術をするということで入院しましたね。

私はこの時、「朴先生が死んじゃうかもしれない!」と思いました。

先生は、私とろくに話もできないまま、入院してしまいました。

何か声をかけたかったのに。

まるでこれが生涯の最後の会話のように思えたのです。

 

だから私は、入院中の朴先生にメールをしました。

内容は簡単に言うとこんなかんじです。

「神様が守って下さると信じます。お祈りします。安心して手術してください。愛しています。」

みなさん。この内容に何か思いますか?

 

私はこのメールを送ったあとに心にひっかかりがあったのです。

何がひっかかったと思いますか?

それは文末の「愛しています」という言葉なんです。

 

//////////////////////////////

 

韓国語の「サランヘヨ」は、日本語よりも使う機会が多いと思います。

しかもクリスチャンならなおさらでしょう。

教会のみなさんがプレゼントを下さる時、私が悲しい顔をして泣いているとき、「千恵さん、愛します」とメッセージを下さいます。

「愛します」という日本人が普段使わない宣言のような言葉に、最初はびっくりしました。

 

でも私はこの言葉がとても嬉しかったし、好きでした。

だから私もこの単語を覚えて、これまでいろいろな方に「愛します」「愛しています」と告げる機会がありました。

しかし考えてみれば、今回、朴先生という男性の方に対して初めて「愛しています」という言葉を使ったのです。

 

私は姦淫の罪を犯した女のような気持ちがしたのです。

この言葉は正しかったのだろうかという不安と後悔が押し寄せました。

この2年間、クリスチャン文化、韓国文化に大分慣れました。

でも日本人である私はこの時、失敗したかも、と思い、動揺したのです。

もしこのメールの文章を奥さんであるサモニムが見たら、

私を軽蔑し、嫌われちゃうかもしれない。どうしよう!という思いがかけめぐりました。

みなさんは笑うかもしれませんね。

でも私は真剣に考え、自分が汚れた者に思えてきました。

 

それまでは涙をもって朴先生の手術の祈りをしていましたが、このことが気になってからは、一人で気まずい思いになってしまいました。

そして悔い改める気持ちと、考えまいという気持ちで、祈りに集中できなくなりました。

しかも朴先生はあっという間に退院し祈祷院から帰って来るじゃないですか。

「とりなし祈りありがとうございました」とおっしゃる朴先生に、申し訳ない、複雑な心境でした。

 

これら一連のことを、最近、愛姉妹に話しました。

「牧師先生に対して失礼な言葉だっただろうか・・・」

すると愛姉妹はゲラゲラと笑いこう答えました。

「そんなのくだらない心配だよ!サランヘヨなんて英語のサンキュウみたいなもんだよ!大丈夫大丈夫!!」

そこで私はようやくほっとしました。

 

/////////////////////////////

 

その夜の月曜祈り会ではこう宣言しました。

「これからはもっと自信をもって愛しますと言うことを宣言します」と。

しかし、どういう訳かそれでも悔い改める気持ちが出てくるのです。

やっぱり私は罪を犯したのだろうか。

なおも祈り続けていると、主は私の、「人を恐れる気持ち」「人に弱い私」を見せて下さいました。

 

つまりこういうことです。

主の御名によって「愛します」と言っても、それを人がどう受け止めるか、

人間的に不安になる私のことです。

嫌われることを過剰に気にする私のことです。

いつも人の顔色を伺う私のことです。

 

///////////////////////////

 

このような私の「人を恐れてしまう心」は、神様の愛を受け取ろうとする器をも萎縮させていました。

私たちの主イエス・キリストの愛ははかり知れないと言います。

にもかかわらず私は、私の知っている愛の範囲でしか主の愛を受け取ろうとしなかったのです。

はかりしれないはずの愛を私が感じることができない故に、

私の経験したことのある愛と同列に並べることができてしまったのです。

本当に愚かなことでした。

これが私の罪だと悟りました。

偉大なイエス様よりも、対人間への恐れの方が大きかったのです。

だから自分の言葉が汚れているようにさえ思えたのです。

 

確かに「愛しています」という言葉は美しかったかもしれません。

しかし、その言葉を本当に美しくしているのはイエス様なのです。

その尊い言葉を私は、まるでアクセサリーのように、ファッションのように、よく知りもせず、使っていたのです。

とても恥ずかしいです。

 

その祈り会で、ユン伝導師先生が按手の祈りをしに来て下さいました。

祈る手から温かく大きな主の愛を感じました。

私はそれを収めることができずに涙が止まりませんでした。

私は当時ずっと「主よ、もっともっと愛したいです」と祈っていました。

ところが神様は、私が愛するよりも先に、愛して下さったのです。

これが応えでした。

 

第一コリント14章1節には「愛を追い求めなさい」とあります。

この聖句のとおり追い求め、門を叩きました。

そして主が門を開い下さったのです。感謝します。

 

人はこう言います。

「自分がされて嬉しいことを人にしなさい。

自分がされて嫌なことは人にしてはいけません」

しかし私は、人の反応、顔色ではなく、主が喜ぶことだけが、正しく、嬉しいことだと信じます。

 

私は宣言します。

これからは、はかりしれない主の愛を人間の愛、小さな自分の器で制限しません。

本当の主の愛を日々受け取り、それを人に伝えていく者となることを主の御名によって宣言します。

主の御心を行うクリスチャンとしてこの世の中で立ち上がり、イエス様の姿を表していく私たちとなることを愛の主、イエス・キリストの御名によって祝福します。