ハレルヤ

この証が神様の喜びとなることを願います。

 

心の傷は、誰でも持っていると思います。

傷があまり無いという人は、少し変わっているか。

本当に無い人だと思います。

 

私は、実はこのように明るく見えて元気に見えるかもしれませんが

自分でも気づいていないくらい傷だらけだったようです。

 

先月まで、行っていた月曜日の「とりなしの祈り会」で自分の傷を打ち明け、その傷に左右されない、どんなことがあっても揺れ動かない神様の弟子となることを皆で打ち明け宣言しました。

正直、その時自分は前向きに自分の心の傷を打ち明けたいとは、思いませんでした。

 

むしろ、心の中で

「あ~、キムテウォン牧師先生と目を合わせないようしなきゃ、まさか私に「傷の話をしなさい」

という指名が来たら、色んな意味で大変だ。やばいやばい。」

と考えていました。

 

なぜなら、私は自分の中でもう癒されていると考えていましたし、ぶり返さなくても大丈夫だと思っていたからでした。

 

しかし、一方で自分の傷が深くて沢山あることは分かっていました。

 

私はときどき、疲れたり、神経を使ったり、あまり気分が良くないことがあると、私は口の中にすぐ、口内炎がいくつも出来ます。最初は小さい穴から、だんだん大きくなって急激に大きくなります。

 

口内炎が出来ると、ある時はしゃべることも、食べることも、飲むことも痛くて、何もかもがやりづらい時がありますが、そんな時こそ、私は、むしろ敢えて、わざとレモンや醤油や塩などで染みるようなものを口に入れて、痛さに慣れさせようとします。半端じゃなく、痛いです。

でも、逆にそれが痛みを通り越して麻痺します。逆に言えば、悪化させる場合がよくありました。

でも、痛さを麻痺させたかったんです。

口内炎の穴が開いててもいいから、痛みにだけは耐えれるようになりたいと思っていました。

 

そんな、自分の姿を振りかえった時、私の無理矢理な傷の癒し方に気が付いたのです。

「今の痛い傷よりも、もっと痛い傷や状況が襲ってくれば今までの傷は忘れられる。」

と思っていたのです。

 

その方法が、イエス様に合って癒されたと勝手に考えていました。

 

でも、本当に同じような傷の状況や傷を私に与える人に出くわしたとき、私の態度はその状況や人によってもっと大きな傷を受けているのにも関わらず、麻痺してしまっているので大丈夫だと感じていたようです。

 

傷はだんだんと、麻痺し炎症を起こし、傷が邪魔で、今度は神様の御前に進むのが難しくなっていきました。

自分をコントロール出来ないと思っていましたが、傷という理由で自分を上手にコントロールしてしまっていたのです。

だから、神様に自分を委ねる、十字架を仰ぎ見るという感覚が失われてしまいました。

 

よく、聞く言葉が「傷が自我になり、愛は憎しみに変わる。」

と聞いたことがあります。

 

これは、人間の限界を本当に現している言葉だなと本当に考えさせられます。

でも、この私の傷が、他の人の傷を癒せる何か道具になれば、いいなと本気で思うようになりました。

その瞬間、私の傷を打ち明けたいなと思いました。

すると、イエス様の十字架の傷の痛みをもっと知りたいと思うようになりました。

イエス様の十字架の恵みをもっと感じたいと思うようになりました。

 

しかし、私の傷は永遠に消えることはないでしょう。

この世を生きる間、この傷を持って行かなければなりません。

しかも、私たちは、自己中心的な存在です。

自分よりも辛い人や苦しい人を見ると、あの人の方が大変なんだと思い、自分を励まします。

 

それならば、イエス様はどれほど、十字架の上での全人類の重荷、そして父、神様から離れて、地獄よりも下にある黄泉に下られたことは、どれほど心が痛かったでしょうか。

何一つ、罪もなく、何一つ悪いこともしてない、清いイエス様が私たちの罪のために、死んでくださったかを考えると、表現も出来ないほど申し訳ない気持ちと感謝の気持ちになると思います。

 

皆さんもこういうこと、ありませんか??

自分の中で葛藤し、これだけは神様の前で決意し、もう同じ罪は犯さないと決めてることがあるとします。でも、また同じ罪を犯してしまった時、自分の心の中は罪責感でいっぱいになります。

私の例えですが、私達は罪を犯すと

「あー、やってしまった。もう駄目だ~。最初からだ。神様ごめんなさい。でも、胸が痛い。今日一日が目の前真っ暗。失敗した。苦しいっ!!!

こんな気持ちになった事は誰でも一度はあるでしょう。

罪責感に打ち悩まされ、沈んでしまう時があると思います。

そんな一つのことでさえも、すぐ落ち込んでしまう私たちの罪をイエス様は、全部背負い込んでいらっしゃたのです。私たち、人間はその一つでも罪責感でいっぱいになるのに、イエス様は全人類の罪を負われて、未来の私たちの罪をも前もって、十字架にかけてくださいました。

むしろ、そして既に勝利されたのです。

 

これを深く悟り、神様の十字架の意味を知ってる人は、自分の罪で「ヒーヒー」言ってる場合じゃないかもしれません。私の傷に比べたら、イエス様の痛みは果たしていかなるものでしょうか。

イエス様の十字架の痛みと恵みが、私と一体にならなくてはならないという事を悟りました。

 

私の中には、先ほど語りましたが傷があります。

疑問に思うこともあります。

 

でも、神様はイエス様を送ってくださったくらい私たちを、心から気にかけてくださり、そして待っていてくださっています。

 

イエス様の十字架の痛みを知ったとき、真の恵みがわかり、この世には未練が一つもなくなります。

その時、傷も癒されます!!

アーメン

 

コロサイ3:15

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそ、あなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 

この御言葉のように、イエス様と一身同体となり、恵みの感謝を忘れない私となるよう宣言します。

 

傷がむしろ、隣人を癒す神様の道具として用いられる私と皆さんになるようにイエス様の御名によって

祝福します。

 

アーメン

 

お祈りします。