この証が神さまの栄光になることを願います。

アガペチャーチに初めての聖殿が与えられ、水曜礼拝を捧げる時のことでした。

当時、私は今まで間違って蒔いてきた種の実を取り除くためにもがいていました。

ですから、自分自身を自分が見てもなさけなくて、はずかしかったのです。

神さまに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

そんな私に水曜礼拝を導いた牧師先生がこうおっしゃって下さいました。

「キル執事さんの祈りが 後に 底力ある祈りになるでしょう。」

当時、私はその言葉が私のことを哀れんで慰め励ますための言葉として

聞こえたのです。

しかしながら、一方では私に下さる予言の言葉として受け止めていました。

慰めの言葉で受け取ろうとしたのは私の思いでした。

なぜなら、当時の私にはそんな言葉が与えられるような信仰は無いと

思っていたからでした。

とは言って、私が勝手な生き方をしていたのではありませんでした。

ただ、自分の愚かな行動によって作られてきた環境の中で、

私自身が主の御前であまりにも恥ずかしくて、みすぼらしかったからでした。

しかし、牧師先生から頂いた予言の言葉を受け止めていたのです。

そして、その通りになることを信仰で受け取ったのです。

その言葉を握り締め、自分との戦い、環境との戦い、

状況の中からの戦いを休まず、戦い続けなければなりませんでした。

時には疲れて苦しい時もありました。

ですが、私に新しい力を与え、疲れないようにして下さる主の御言葉を頼り、

主が下さる力で頑張って走ってきました。

たとえ私の信仰のせいで、

与えられた約束の御言葉が成し遂げられなかったとしても

たとえ私の弱さのせいで、

与えられた約束の御言葉が私の考えと違うものであろうとも

戦い続けることを辞めるわけにはいけませんでした。

私たちは自分の前に置かれている状況と環境によって倒れることもあります。

失敗をしてしまうこともありうるのです。

そうだとしても、私たちが失ってはいけないことがあります。

それはその環境に倒れたとしても、失敗をしたとしても、

自分の存在感さえ失ってしまってはいけないことです。

なぜなら、存在感を失ったそのすきを悪霊が狙っているからです。

私たちの存在感の喪失によって、悪霊に心を奪われないことを願います。

私たちは神さまを愛します。

神さまの愛を深く感じています。

神さまが私と共にして下さっていると思ったりします。

私たちは、こういう言葉をよく口にします。

神さまの愛は深く感じられるのに、

神さまの愛で行うことは愛を感じることより、ずっと足りない気がします。

皆さん、愛は、感じることに留まっていてはいけません。

神さまの愛を感じているとともに、

私たちが愛していくことが、真の愛を成し遂げていくことであると信じましょう

私たちが信仰をもって御言葉を握り締めて、戦っていくこと!

これが神さまを愛することなのです。

私たちが苦しいけれど、主から与えられた御心をもって進んでいくこと!

これがまさに神さまを愛することです。

苦しい時に人に頼るのではなくて、神さまにしがみつくこと!

これが神さまを愛することです。

ですから、神さまを見つめて、切に叫び求めていくことを願います。

細かな部分までも干渉してくださる神さまです。

ですから、私たちも細かな部分まで神さまに頼り、求めていきましょう。

私に与えられた神さまの約束の御言葉が成し遂げられるように

主を全面的に信頼して頼る信仰が求められていることを信じましょう。

なぜなら、主だけが私の助けであるからです。

主を見上げる者、主を愛する者には

新たに注がれる神さまの恵みと愛で満たされることを信じます。

主が下さる恵みと愛、主が下さる力をもって

約束の御言葉を握り締めて、最後まで勝利していく私と皆さんになることを主イエス・キリストの御名によって祝福します。