神様の超自然的な奇跡が起こります6

 

ハバクク3:17

そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、

ぶどうの木は実をみのらせず、

オリーブの木も実りがなく、

羊は囲いから絶え、

牛は牛舎にいなくなる。

しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

私の主、神は、私の力。

私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

 

人は自分の人生が豊かになることを願います。

事業も成功し、お金も稼ぎたい、健康でいたい、子供たちもよく成長してほしいと、何事も暗いことなく人生を送ることがいいことだと考えています。順調な生き方を目標にしているのです。

しかし、これらすべてのことは神様によって与えられるものです。なのに人々は神様から遠ざかっても、この生き方を目指そうとしています。

いちじくの木は花を咲かせない、ぶどうの木を実りがない。という本文の聖句を訊くと、気分が嫌になります。しかし、神様は、羊が囲いからいなくても、牛が牛舎にいなくても、救いの私だけで喜びなさいと言います。祝福の聖句ではなく、何にもなくても神様だけで喜びますという聖句を人々は喜びません。神様から与えられた御言葉なのになぜ私たちは喜べないのでしょうか?それは、人生の目標にイエス・キリストがないからです。ほとんどの人々の目標は、いちじくの実なのです。だから実りがない現実に腹を立てているのです。だから試みにあうのです。そうして御言葉を拒むのです。自分に都合の良い御言葉だけを選んでいるのです。

ですが、今日、神様の御言葉は祝福だと信じてください。今日の御言葉は、祝福の本質をついている聖句なのです。祝福を受ける条件を語っています。

心が負担に感じる御言葉もあるでしょうが、この御言葉が祝福の鍵となること信じてください。

私たちが祝福を受けるのは、イエス・キリストのためなのです。これを失ってしまうとすべてが崩れてしまいます。私たちはどこで何をしようが、御言葉通りにいきましょう。神様の御心通りに生きることが信仰なのです。義人は信仰によって生きるとありますが、ほとんどの人々がそうではありません。義人は、健康や祝福、奇跡によって生きるのではありません。義人は、何も起こらなくても、ただ神様だけで生きるのです。神様だけで喜ぶのです。最後まで信じられないから、自分にあった信仰で生きるのです。神様の願われる生き方、信仰でなければなりません。

 

士師記7章に出て来るギデオンの話があります。ギデオンが神様の御声を聞き、世に宣言しました。そこに、周りに3万人の献身者が集まってきました。神様は人が多すぎると言いました。ギデオンは恐れのある者を去らせました。そして1万人が残りました。その時、2万人の帰る人々を見送る1万人の人々の心はどうだったでしょうか?敵は目の前に迫っているのです。

どうして敵を目の前にして、軍勢を減らすのでしょうか?神様の命令に不信を抱いた者は多かったはずです。さらに神様は、300人まで軍勢を減らしました。敵は10万人でした。

偵察に行くと、敵は寝ていました。それは、海の砂つぶのようでした。

神様は「行け」と命令しました。自軍は300名です。敵は10万人。神様は戦わせ、なんと勝たせのです。これが、神様の中にとどまる者たち、神様を信じた者たちの力なのです。

数が問題なのではありません。そこに、どれだけ神様に立っている者がいるかが重要なのです。

教会も同じです。そこに神様を正しく信じている、神様とともにいる人たちが重要なのです。

ギデオンは、自分が神様とともにいたと感じたはずです。敵の方が、イチジクの実があると感じたはずです。しかし、神様だけを信じた者にまことの奇跡は起こるのです。

状況に騙されないでください。神様の御言葉を掴んで、神様とともにいることによって、神様は私たちの人生の中で、奇跡を見せてくれます。

神様が何か与えてくださったから、感謝して賛美するのではありません。神様から何も与えられなくても、心を尽くして賛美する私たちの姿を願っておられるのです。どんな環境にあっても神様を見上げることを願っておられるのです。そのような者たちを用いて、奇跡を与えてくださるのです。

神様の300人の勇士として立つこと祝福します。

人生につらい状況にある時、罪があるなら悔い改めてください。正しい信仰生活を送っているのに苦しい状況にある人は、喜んでください。

主からの信仰のテストを乗り越えながら悟ったことがあります。壁の向こうとあちらでは違うのです。生き方の壁とは、何かの境界線なのです。乗り越えないと何が向こうにあるかわからないのです。信仰生活を送っているのに、壁の手前で留まっていては何も変わりません。壁を前にして、落胆し、諦め、ごまか生き方ではなく、壁の前で主にあって喜び、楽しむ私たちになることを祝福します。このような状況の中で、主イエス・キリストを喜ぶことこそ信仰なのです。

何もなくて、喜んだり楽しくすることはできません。それはおかしな人です。

壁の前で、大変な状況の中でも私たちは神様を喜ばすために何をするべきか考え、主にあって喜んで壁を乗り越えていかなければなりません。

壁は本当に嫌です。しかし、その反面、壁に期待する気持ちもあります。なぜなら、壁を乗り越えた人だけが味わえるものがあります。霊的な祝福を知ることができるのです。この祝福はあまりにも尊いものです。壁の前で諦める人、落胆する人は、この霊的な祝福を見る事はできません。乗り越えることによって霊的な筋力が強められるのです。乗り越えられない壁はないと聖書にはあります。信仰のない人でも壁を乗り越えようとしています。そのぎりぎりの高さは神様がちょっと助けてくれる高さなのです。自分が最善を尽くしてする力と、神様の力がなければ乗り越えることはできません。壁の向こう側には、神様が何かを与えたいというものがあるのです。

 

どのような環境にあっても、喜んで賛美します。

ただ主だけに、喜び、誉め称えます。

私の祈りを礼拝を賛美を受けとってください。

 

宣言と恵み

御心にかなった作品をつくるために最善を尽くします。どんな状況にあっても神様を喜んで賛美し、礼拝します。