神さまを愛する人の生活    ヤコブ2-26


私たちが神様の御言葉を語るとき、神様の通訳者となっている。神の御言葉の通訳者は聖書を通して愛の姿を見せていく。聖書に感謝せよ、という御言葉の通りに生きるとき、私が生きて歩く聖書になることです。教会の中で、クリスチャンらしくしていますが、外に行くとこの世と変わらない生活する二つの人格を持つクリスチャン。こういう生き方をしたくないと思っても、してしまう。しかし、神様は言います。この世と区別した生き方をしなさいと言いますが、この世からでて暮らしなさいと言っているのではありません。もし、出て行くならば、どうやって未信者に福音を伝えるのか。本当のこの世の区別とは、賛美、祈りを捧げる姿、教会の中でしていることをそのまま世の中でも表すこと。世の中にいても、自分が神を愛していることを表す。妥協とは、自分が損したくないためにするのです。聖書には、神を恐れ、神を高める人がその人を高く引き上げてくれるのです。信仰の行いのない人は、忌まわしい者だといわれます。神様は私の永遠の献身の対象です。
私の必要だけをみたすときだけあがめるのではない。信仰者はどこでも姿をかえてはいけない。
どんな状況でも真実に信仰を守るものを喜んでくれる。
そのような信仰の人を、恵みを恵みとして受け取れる人。いかなるときでも感謝を捧げる人になる。
 
死んだ魂をもっていきるのではなく、神様を心から愛して教会の中でも外でも
神様が願ってるとうり神様のみ言葉どうりいき、守り行なう人になる。
 
恵み

この世の中で妥協せず、神様のことをいつもほめたたえいく姿をあらわしていくものになること
を決心しました。また教会の外でも中でもいつも神様の目だけを意識して変わらない態度で歩んでいくことをします、いま私の課題は人間関係による誤解、拒絶の時期にいますがそのようななかでも言い訳せずひたすら与えられたことに忠実に生き、たとえ損をしてもいつも心から感謝の人となって神様に喜ばれる信仰の人になることを宣言します。