マタイによる福音書13:15
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。
マックドナルドでアルバイトをしていた時のことです。
一番優しく仕事を教えてくれるのは店長です。
私は、しょっちゅう注意される一つのことがあります。
それは、お客さんの注文をさえぎらないで、言葉を言い終わるまで聞きなさいということでした。
例えば、こういうことですね。
お客さんがビックマックセットを下さい!と言います。
そして、私をじっと見つめるんですね。
すると、私は聞きたい事が一杯浮かんで来ます。
ポテトセットのサイズ、飲み物の種類とサイズ、他に注文はないのか、店内で召し上がるのかなどなどですね。
しかし、最後までお客さんの注文を聞く事が原則となっています。
なぜなら、それが一番早いし、
また、他の注文にもつながり、売り上げにも関係があるからですね。
すべての注文の時間は決められた時間内で終わらせないと減点になります。
それで、私は心があせってきます。
注文を考えているお客さんに聞くんですね。
しかし、聞き方が間違っていたのか、よく注意をされました。
他の店員は、皆お客さんに聞いているのに、なぜ私だけに聞いていなさいと言うのか。
よくよく考えながら、気を付けて何週間働きました。
ところが、私より一つ上のトレイナーに教えられ、気付いたことがありました。
私がお客さんの注文を聞き間違えっていたことがわかってきたのです。
それからは、お客さんとのやり取りをする自分を注意深く観察してみました。
注文の会話でなく、一方的に注文を強要している自分に気付いたのです。
それで、お客さんの唇だけを見ながら注文を受けました。
しかし、ひどいほど、言葉を聞き間違っていることがわかりました。。
ショックだったけれど、祈りながら仕事を頑張りました。
そして仕事が終わった後、祈り中、教えられた事がありました。
言葉を聞き間違えているのは、肉的な事だけではなかったんです。
霊的にもつながっている事だということが分かりました。
人の言葉もきちんと聞き取れてないのに、
どうやって聖霊様のみ声を聞き取ることができるんでしょうか。
それは、まさに心の問題であることに気が付きました。
自分の悪い心によって生み出された結果だったのです。
イエス様の時代の人々は、神様のみ子であるイエス様を直接に見て、また会っていました。
イエス様から教えも聞くことができました。
しかし、イエス様はすべての事を例え話で語りました。
律法学者、バリサイ人、大祭司長たちは、イエス様がどんなみ言葉を語っても非難しました。
彼らは、聴こうとする心ではなく、判断し裁こうとする心を持っていました。
イエス様の弟子たちは『この例え話はどういう意味ですか?』と
その意味が気になって訪ねました。
しかし、バリサイ人はイエス様を試そうとする質問ばかりしました。
そして、イエス様の返す言葉の中、自分の心が刺されるような事があると、石をもってイエス様を打ちつけようとしました。
彼らは、イエス様だけではなく、イエス様によって癒された多くの病人達と、奇跡も信じようとしませんでした。
目で見ても信じないし、耳で聞いても疑っていました。
そして、彼らは律法通りに行わないことを罪の名目として、イエス様を締め出していました。
一言でいうと、彼らは、悪い心を持っていたということです。
良い思いで聞こうとしなかったので、何回もイエス様に質問しながらもイエス様の答えを聞こうとはしなかったのです。
主のみ言葉は耳が遠くて聞こえない事でもないし、目が見えなくて見えない事でもありません。
聴こうとしないから聞こえないし、見ようとしないから見えないだけなのです。
しかし、これは必ずしも、神様との関係にだけ、限られたことではありません。
神様のかたちに似せて創られた人は、人間関係の中、映し出される主を見出す(みいだす)ことができるということが分かりました。
人の言葉を聞こうとしない者に、果たして、神様の声には心が開かれることがあるでしょうか。
悪い心は(器の種類を問わずにして)ふたをしている器のようなものです。
ふたを開けない限り、その器には何にも入れる事はできないのです。
判断というふた、自我というふた、価値観や不信仰というふたを開けてはじめて、
その中に何物でも入れることができるのではないでしょうか。
イエス様の時代に、多くの目の見えない人、耳の聞こえない人、口のきけない人がイエス様の前で叫びました。
ダビデの子孫イエスよ!私を哀れんで下さい!
イエス様は振り向き、彼らにこう訪ねました。
『私に何をして欲しいのか』と。
彼らは答えました。
『よくなりたいです』と言います。
すると、イエス様は言われます。
『あなたの信仰の通りになれ!』
霊的に目が見えず、耳が聞こえない人である事を悟らせて下さった神様に感謝します。
イエス様!私はよくなりたいです!
イエス様!私は聞きたいです。
私を哀れんで下さい!
主に切に祈り、主に働いていただける信仰に硬く立つ私になることをイエス様のみなによって宣言します。
主に喜ばれる良い心を持って主のみ声を聞き、
また、霊的に悟り、癒され、新しく作り変えられる私と皆さんになる事をイエス様のみ名で祝福します。