説教  私はどのような言葉を使って暮らしているのか   詩篇102-1-5
 

人間は言葉をつかって毎日暮らしている。会話の相手の中で一番に話しをしているのは、以外に自分だと言う。
自分自身との会話をする中でもし、私が肯定的なら霊的に健康な性格となり、もしも否定的なら、私自信が霊的に
病んでいる状態となっての性格として表れるのです。ですから自分自身との会話は自分の人生を生きるうえで、とても
重要であり大事な人生の選択肢となっているのです。自分が語る言葉をとうして私自身へ宣言され、
そのように性格、気質がつくられていくわけなんです。ですからその人の考えが行動となって表されいくのです。
いつも感謝しどんな時も信仰的、前向きに生きる人は霊が喜びに溢れ心配がありません。しかし
いつも不満、否定的、言い訳ばかりする人は心に不安、恐れがあります。
ダビデはどんな絶望の人生の中でも、いつも自分の魂に向かって宣言し続けたのでした。
毎日、主にむかって感謝を宣言し、主の恵みをほめたたえ続けました、
なぜ困難なときに感謝ができたのでしょうか?
それはダビデは主から受けた恩恵を一つ残らず忘れずに覚えていたからなんです。
恵みを心に刻む者は、感謝を決して忘れない。感謝とはイエス様の十字架からはじまるからなのです。
イエス様の十字架の愛と罪の許しが私たちに下さったので、悔い改めができるという恵みに感謝が溢れてしまうのです。
主の下さった悔い改めによって私自身が、救われて、新しい人になることができるのです。
聖書の中に私のためにムチ打たれ、その打ち傷によって癒されたと書いてあります。
これは事実ですから癒されたい人はこの御言葉を信じて主に宣言してください。必ずいやされます。
聖霊様が共に働かれて実現しますから聖霊様の御業を信じてください。その偉大な力を私が宣言するのです。
宣言するとは私を造りかえてしまう神の力を私が知るようになります。
自分自身への宣言を主とともにして生きていきましょう。


恵み

本当に主の恵みの中に生きているときだけ神様にへりくだり自分自身を見つめ、悔い改めることができます。
形式的な悔い改めにはなんの力もなく主からの許しがあったかどうかの確信もわからないのです。
私が涙を流して罪人だと悟るときの神様に許しと平安が溢れ、感謝と恵みに支えられて生きれるように
なります。主の下さる平安の中に入っているときだけ、主といっしょに宣言することができる。
私が疲れ果てたときも声にならない心境のときでも私は宣言し続けたい。必ずその宣言どうりに
主が私を引き上げ、環境を変え、新しく私を造ってくださるの主しかいないと確信しています。
宣言こそイエス様の復活の力ですから大胆に宣言して行きたいです。