聖霊と共に歩む信仰

 

信仰生活とは一本の綱を渡り歩くようなものだと言いました。先日はそのために現実を恐れないことが大事だというお話をしました。今日はそれに続いて、諦めたり、失望したり、疲れないことが大事だというお話をします。

 

ガラテヤ6:9

善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになるのです。

 

このことを覚えてください。人生に疲れて諦めてしまっては刈り取る実がなくなってしまいます。信仰生活でも家庭の中でも夫婦間でも葛藤を抱いて暮らしているかと思います。しかし疲れ、諦め、失望してしまってはそれで終わってしまいます。私たちが信仰の人であるならば、そこで疲れてしまってはいけないのです。

 

疲れず失望せずに歩むとき、御言葉のように、時期がきたらすばらしい実を刈り取ることができるのです。疲れて諦めてしまっては今までの信仰の実がなくなってしまいます。疲れたと感じる多くのことを思い起こしてみると、それは本当は感謝することではないでしょうか。配偶者、奉仕、礼拝、全て感謝なことですね。疲れた思いを感謝に変えて楽しんでください。楽しめたらばすでにそこには感謝があるのです。

 

信仰の綱渡りの中で疲れさせることを感謝に変えて歩む皆さんになることを祝福します。

 

テモテⅡ:7−8

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけではなく、主の現れを慕っている者には誰にでも授けてくださるのです。

 

どのようにしたら疲れずに歩むことができるでしょうか。主は聖書を通して聖霊に助けを求めることが書いてあります。私たちに必要なのは、聖霊にたより歩む人生、聖霊の力です。その力により私たちは元気に回復させてくださると書いてあります。

 

イザヤ57:10

あなたは、長いたびに疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった。

 

聖霊によって疲れた心は元気になるのです。その方法、新しい力とはイエス・キリストを正しく知る力を与えてくれるというものです。これこそが力です。疲れた物事をむしろ踏み台にして元気を与えてくださるのです。この世が与えることができないまことの平安です。

 

ハバクク3:17−19

そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高いところを歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。

 

私たちの生き方は時に実のないイチジクの木かもしれません。しかしそのような人生の中でも精霊様が共にいてくださることによって、そして疲れたと結論づけないで歩むなら、新しい力を受け取ることができるのです。信仰の一本綱を最後まで歩みきることができるのです。時がきたときに刈り取ることができるのです。精霊様に満たされた姿をもって、走るべき道のりを勇敢に渡りきる私とみなさんになることを主イエス・キリストの御名によって祝福します。

 

[宣言と恵み] 

メッセージをきいて元気が出てきました。勇敢に戦って歩めるような気がしました。ハバククの御言葉が初めて心に留まりました。パウロの言葉はいつ読んでもかっこいいです。いろいろなことにおいて、楽しんで取り組む私となることを主イエス・キリストの御名によって宣言します。