神様は人を探しておられます

 

私は人を探してると主は言っています。神様の御心、計画を成すために探しているのです。

 

不景気のこの世の中、人々は職を探していますが、皮肉なことに会社側も人を探しているのです。性格がよく、実力があり、使命感を持って働く人を探しているそうです。

 

世の中もそうですが神様もそうなのです。時代事に神様の御心を成す人を探しています。イスラエルという国家をたてるためにアブラハムという人を立たせました。出エジプト記にあるようにモーセを立たせました。福音を伝えるためにパウロを立たせました。今のこの時代も神様は人を探しておられるのです。私たちがその働き人になりましょう。

 

神様はどのような人を探しているのでしょうか。予言者イザヤを召す場面が今日の本文です。ウジヤ王が死んだ年のことです。ウジヤ王の時代に水道などが整えられイスラエルが栄えたのですが、ただ信仰において欠点があったことが第二歴代史に書かれています。心が高ぶってしまい、恵みを受けられなくなったのです。神様との距離が遠くなり、御心がわからなくなり、自分の思い通りに生きるようになりました。自分の権力を使って祭司に命令を下しました。神様はその鞭として彼をライ病にし、死んでしまいました。

 

困った時には誰でも神様を求めますが、余裕が出てくると神様を求めなくなります。主からいただいた祝福を持ってさらに主を祈り求めることが大切です。ウジヤ王の死は単なる歴史的なことではなく、主からのメッセージなのです。打たれて神様に立ち返ることができるなら打たれた方がましです。片腕切って天国に行く方がましだと聖書にも書いてあります。

 

祝福が与えられたなら霊的な管理をしっかりしましょう。日頃から自己管理ができてこそ後にも管理ができるのです。

 

イザヤ6−8

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。

 

そこで用いられたのがイザヤです。どうしてイザヤだったのでしょう。それは正しく生まれ変わった人だからです。新しく変わったということです。十字架に古き自分をつけることです。

 

イザヤは天使たちが主を崇める幻を、神様の臨在を体験します。しかしそれを誇りに思うのではなく、自分の汚れを悔い改め始めました。聖霊が彼のまわりに訪れ、彼を新しくされました。イザヤを予言者として立てたのです。私たちは変わらなくてはなりません。

 

砂漠でイエス様に会ったサマリアの女の人と同じように、また律法主義者であったパウロが使徒と変わったように、私たちも変わらなくてはいけません。神様を信じる人は多くいますが、神様に出会っていくことが大事なのです。幻や主に触れられる体験が大事なのではありません。主との交わりを持つことです。そして自分の内側から変化が起こってくるのです。

 

まさに本文のようなイザヤと同じような心を持つことです。汚れた罪を悔い改めなければなりません。神様に本当に会うことができるのはその時です。私たちを赦し新しく作り変えてくれるのです。謙遜な心で神様の前で悔い改め、自信を回復させてください。そのような人が神様の用いる人なのです。

 

今の時代に神様の探しておられる私と皆さんになることを主の御名によって祝福します。

 

[宣言と恵み]

土曜の祈り会のあと家に帰って祈ったとき、イエス様にお会いできたかどうか自分ではよくわかりませんでした。水曜礼拝のとき、ヨンミ先生から「イエス様に会ってますよ」と言われた時に「え?!」と驚きと共に突然!この本文の御言葉が浮かびました。実は土曜に家で祈った後いつものように寝る前に聖書を読んだのですが、その箇所がちょうどイザヤ6章だったのです。そして、翌日の主日のメッセージが同じ箇所だったので、驚きましたが、何かあるな、なんだろうと思うくらいでした。しかしこういうやり方でイエス様は私に会いに来て下さったのです!!あすごく感激しました。

「聖なる、聖なる、聖なる・・・」「ここに私がおります」という御言葉がずっと頭の中にありました。神様は本当に人を探しておられる、私が清く謙遜でなければならないと思います。しかし、日頃の自己管理ができないものに何ができるのか?今日もう一度悔い改めます。今週こそミッション確認表をちゃんと提出します。そして今週あまりできなかった神学校のレポートも着々と進めることをイエス様のお名前で宣言します。

せっかくイエス様がサインを下さったのだから、本当に変わっていきたいです。

神様に感謝します。