「聖くなりなさい」これが今日の神様からのメッセージです。負担に思いますか?しかし主が強く語りました。切なる思いを持って祈る時主が答えて下さるときがありますよね。このメッセージは主だけに焦点を当てて祈っている時に主が近づいてこられた、というのではなく、自分が主に吸い込まれたと言った方がいいでしょう。そんなときは主が語るよりも私の霊が直接主の御心を悟るのです。聖い心を持つ者が天国へ行くものです。聖さは本当に大事な者です。

 

この世の中は聖いとは言えないかもしれませんが、その中でも私たちはもがいていかねばなりません。人生に置ける全ての鍵は聖くなることです。聖さについて何週間か語ろうと思います。今回が霊的なチャンスなのです。目の前の障壁を打ち壊す鍵も聖さにあります。

 

産婦人科の分娩台の上に産婦があがり、「医者が深呼吸してください」と言います。産婦は深呼吸しなければなりませんが、「深呼吸、深呼吸」と繰り返し呟くだけでちっとも深呼吸できないのです。このような姿が多くのクリスチャンの姿なのです。考え方、言動がノンクリスチャンと変わりません。教会に来ては「信じます、信じます」と言いますが、実際実行していません。「深呼吸」と呟くだけの産婦は、酸素不足になり、胎児にも影響がでます。同じようにイエス・キリストを救い主として受け入れていながら、悔い改めず、絶対的な信仰が無く、行いがなく、言葉だけで「信じている」というならば、私たちの霊、生活に著しく影響が出てきます。

 

信仰とはなんでしょうか?信じますということですか?最初はそう宣言するところから始まりますね。聖書には創世記からヨハネの黙示録まで通じて発していることがあります。それが聖さなのです。心からイエス・キリストを信じているならば自分を聖めていくはずです。聖さによってどれだけ神様を愛しているかがわかります。天国での報いがわかります。献身は聖さから始まります。聖さによって真の働き人が生まれるのです。

 

今日の本文ヨシュア3:5では

あなたがたの身をきよめなさい。明日、主が、あなたがたの家で不思議を行われるから。

 

主はあなた方の身を聖めなさいと言ってます。その後に不思議を行うと言っています。イスラエルのたちはこの言葉に従順しました。そして実行しました。身も心も聖めました。葦の生えているヨルダン川に足を入れました。その時に流れがせき止められ、カナンの地に渡っていくことができたのです。神様はこのように聖めた者を探しているのです。私たちも主が探している聖いものになりましょう。

 

私たちに重要なのはイエス・キリストの聖い霊に満たされることなのです。聖徒さんの中ではとても恵まれた時に、私にこう言います。自分が物質に恵まれた時に教会を建てます、教育センターを建てます、世界の宣教センターを建てます、と。とても尊いすばらしいことです。しかしそのような方にこう言いたいのです。それよりも神様の前に自分自身が聖くなることです、と。最も大事なのはイエス・キリストの霊に満たされることなのです。そうなれば全てができるからです。聖いイエス・キリストの霊に満たされなければ教会の建築は無理でしょう。もちろん人間の力で建てることはできるかもしれませんが、主に用いられません。

 

主の御心が示したことをそのまま語っています。イエス・キリストの聖い霊に満たされなければこの世のもので終わってしまいます。第二歴代史29章には「聖さとは汚れたものを取り除くことだ」と書いてあります。取り除き、主の聖さを入れるのです。聖書では私たちを器に例えています。神様は金や銀の器を使いません。聖い器を用いるのです。いくら大きくてもそれが汚れているならば何を入れるでしょうか。ゴミしか入れられません。聖い器に天にある聖いものを入れて下さいます。聖い器を通して共に働いて下さるのです。

 

みなさんまずお金を稼ごうとしないで下さい。まずイエス・キリストの霊に満たされて下さい。人と交わりをし、礼拝をささげ、祈りを捧げることは良いことです。しかしその中にイエス・キリストの聖さがなければなににもなりません。何かを始める前にイエス・キリストの聖い霊に満たして頂きましょう。

 

主、イエス・キリスト、御霊の共通点は聖くあることです。ですから天使のミクタムは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と主を崇めました。ローマ1では「イエス・キリストの霊は聖い霊」だと書いてあります。聖霊様は私たちを導き、守り、助けてくださる神様からの聖い霊です。聖い神様から生まれた者は聖くならなければならないのです。

 

教会に通う皆さんは聖くならなければならないこと、罪はいけないことだと知っています。しかし罪は憎むのですが、罪がもたらす快楽は密かに好むのです。だれも罪を好んだりはしません。罪がもたらす快楽を求め、快楽に寄って倒れていくのです。多くの主の僕が倒れています。罪の誘惑が目の前に立っており、自分にそれが働きかけてなくても自ら近寄っていくのです。誘惑が目の前をうろうろしていると、早く自分を誘惑してくれればいいのにとさえ思います。

 

それは私たちは罪の快楽の痕跡が私たちの肉体に刻まれているのです。ですから肉体は快楽に近づきたいのです。しかし霊は神様に近づきたいのです。やったらいけないといいながら罪を犯してしまうのです。神様に生きたい思いが肉の思いに負けてしまうとそちらに行ってしまいます。

 

第二テモテ3には「私たちの霊がイエス様の霊にみたされなければ神様よりも快楽を愛する者になるのです」と書いてあります。多くのクリスチャンは「主よ愛します」と言います。しかし罪の誘惑の中で倒されます。なぜでしょうか?心が聖い霊に満たされてないからです。簡単に倒れます。内側に聖さが無いクリスチャンは力ある祝福の生活、奇蹟の生活は無いのです。結局倒されてこうかいする人生を繰り返すことになるのです。霊的に無能力で悪しき霊にコントロールされてしまうのです。実際に多くの人がこのように生きているのです。

 

しかしその中でも罪をののしり、キリストの名で悪しきものを追い出しもがく者がいます。聖書にはその人たちは神様から生まれたものだと書いてあります。罪の前で罪を追い出すことができるのは聖さによるのです。奉仕を

を多くやり、すばらしい賜物が与えられる人が罪に打ち勝つことができますか?ただイエス・キリストの霊に満たされた人だけが勝つことができるのです。まさに神から生まれたものになりましょう。

 

神様は聖いものを探しておられます。祝福の通路として用いる者を探しているのです。奇蹟の道具を探しております。

 

7月の終わりころ、私の内側に神様が語りかけました。「テオン、あなたは私のプライドです。そしてこのことを人々に伝えなさい」つまり、私たち一人一人が神様のプライドとして立て、私たちを生かしておられるのです。私たちは自分で生きているように思われるかもしれませんが違うのです。私たちがどう生きていくかによって神様のプライドが高められるか、また壊されてしまうかが決まるのです。あなたは私のプライドですといった主の言葉を心の奥深くに刻んでおきました。そして私を御心に引っぱり、聖くなりなさいと言ったのです。聖い心を持つ者が天国を持つ者です。

 

「私は神様のプライドです」

神様のプライドとして、世に引っ張られていかないようにしましょう。罪は追い出さなければなりません。ダビデの前にら割れたゴリアテは彼に倒されるために現れたのです。私たちの前の罪は倒すためにあるだけなのです。罪に着いていかないで下さい。罪の前で膝をかがめないでください。なぜなら私たちは神様のプライドだからです。

 

マラキ2には「私は聖さを愛する」と書いてあります。神様から生まれた者はパウロのように自分の肉体をたたいてもがく者なのです。聖さを求めて生きていくみなさんとなって下さい。罪に向かって立ち向かい命令し、神様の聖い人として生きていくことを祝福します。信仰者=聖い人、なのです。言葉だけで信じますという人は主の奇蹟を体験しません。イエス・キリストの霊に満たされている人だけです。内側の汚れを脱ぎ捨てて、ただ、イエス・キリストだけを受け入れて下さい。そして主とひとつになって歩んでください。激しいヨルダン川でも、聖い者が足を踏み入れるならば流れをせき止められるのです。そのような奇蹟が起こるのです。

 

[宣言と恵み]

「罪を好むものはいません。しかし密かに罪がもたらす快楽を好むのです」という言葉がすごく頷けました。私は罪から離れます。聖くなりたいからです。

しかしパウロのように身体にむち打つことが足りません。まだまだです。

でも私は主のプライドです。主を高めていきたいです。ですから、やはり聖くなりたいのです。もがいています。でももっともっともがかなくてはなりません。内側の汚れをすっかり取り除きたいです。信仰者となりたいです。主と同じ夢を見たいです。聖い器となりたいです。

これからは自分は主のプライドだということをもっともっと心に留めて生活していくことを主イエス・キリストの御名によって宣言します。