主の奇蹟が起こりますⅨ

 

主は絶えず聖さを求めています。私たちは聖さを得るためにもがかなければなりません。ソ執事さんからの証では夫のウ執事の蕁麻疹が癒されたそうです。私もそういう経験があります。主は全能です。私たちは全能の主に仕えているのです。

 

宣教師協会のアンケートに依ると、自分がどこからきてどこへ行くかという問いに関心はあっても、また知っていても、正しい道を行く人が少ないことがわかります。なぜ知りながらも正しい道を歩まないのか、それは聖い信仰が無いからです。それでは聖い夢はあっても成すことができません。私たちは聖い器、信仰の人になりましょう。

 

聖さが無ければ厳密には聖徒でも牧師でもないのです。聖さが無い礼拝は礼拝ではありません。神様に属す者は必ず聖さがあるのです。本文ではコロサイ教会が登場します。使徒パウロがエパフラスに教会を任せ、宣教に行きます。しかしローマ兵に捕まります。牢屋の中でコロサイ教会の成長をエパフラスから聞き、喜んだパウロは、主が聖さを求めていることを彼に告げます。

 

コロサイ1:10−12

また、主にかなった歩みをしてあらゆる天で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに身を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えて下さった父なる神に、喜びを持って感謝をささげることができますように。

 

聖い信仰について4つのことが書いてあります。

第一に主にかなった歩みをすることです。上辺だけではありません。主の聖さは悔い改めによって生まれます。

第二にすべてにおいて神を喜ぶことです。

第三に主を深く知ることです。

第四に主に感謝をささげることです。

 

今日は第一の主に適った歩みをすることについてお話しします。これは、神様の子どもであるなら神様の子どもらしく歩むことです。弟子ならば弟子らしく。花嫁ならば花嫁らしく。主の兵士ならば主の兵士らしく。まさに主の信仰の人らしく生きることです。

 

しかし時々そうでないときがあります。いかなる環境のときでも信仰の人らしく生きていきましょう。それが聖い信仰だと言っています。このような人を通して主が働かれること、助けられることを信じましょう。あなたたちは私のプライドだと神様は言いましたね。

 

1970年代パク大統領の時、ファン大将というクリスチャンがいました。大統領の誕生日のとき、側近の者たちが大統領室に招かれ、お祝いが行われました。その時大統領自ら酒をみんなにふるまいました。みなが大げさに申し訳なさそうに酒をもらいましたが、ファン大将はついでもらった酒を胸ポケットに入れます。右ポケットにも左ポケットにも。服は濡れてびしょびしょになります。大統領はどういうことかと怒ります。ファン大将は言います。「私はクリスチャンです。だから酒は飲めません。しかしせっかく大統領からついでもらったお酒ですから捨てる訳にはいきませんので胸ポケットに注いだのです」誰もがファン大将の人生は終わったと思いました。大統領は「今後彼に酒を勧めてはならない。イエス様を信じるならこの人のように信じなさい」と言ったのです。ファン大将はその後、陸海空軍参謀長官として立たされました。主は彼を立たせたのです。

 

みなさんならどうしますか?閣下の前で、主もこれくらいは許して下さるのではないか、と飲んでしまうのではありませんか。主はその姿を見つめておられます。

 

アガペの聖徒の方も同じような状況に置かれたそうです。仕事仲間もクリスチャンで同じビジョンを持ち、一緒に仕事をしようとしましたが、彼は酒の席で何事も決めようとし、世の中はこのように渡っていかなければならないと言われました。そのことで相談に乗りました。私は、すぐに彼と別れなさいと言いました。主は見つめています。クリスチャンと名乗っていても、一人は神様に頼り、もう一人は酒を持って世の手段でやっていこうとするこの状況を。

 

神様の方法でやっていこうとする勝利者には驚くべきことがおこるでしょう。ダニエルは偶像にひざまずきませんでした。そして神様はともにいるということを状況を変え見せて下さいました。信仰の人が信仰の人らしく生きる時に、その人の人生に奇蹟が起こるのです。

 

ヘブル11では信仰の人が信仰の人らしく生きる時神様はその相続分を受け取ると。今日の本文も同じです。神様は真実な方です。聖くなりなさい。聖い信仰を持ちなさい。どんな環境でも純潔な花嫁のように生きていくことを主の御名によって祝福します。この時代に聖い種の兵士となることを祝福します。

 

[宣言と恵み]

「〜らしく」という言葉は私は以前好きではありませんでした。自分らしく、女性らしく、男性らしく、子どもらしく、・・・。一人一人が違うのだからそのような型にハマった言い方に反抗心を持つ人は少なくないはずです。しかし、自分らしく生きていくことに反抗心を覚えるその人が、何が自分らしいのかを知ってはいないのです。私は確信します。自分らしく生きていくことは、主の中に留まっていないと成すことができないと。

ですから今は「〜らしく」生きることが好きです。特に「信仰の人らしく」生きることには誇りを覚えます。単に憧れ、思い描くのではなく、ひとつひとつの言動が信仰の人らしくあるように、今は願っています。どのようなことが信仰の人らしいのかは、その時々で主が示して下さると信じます。主のサインをいつも感じ受け取る私となることを主の御名によって宣言します。