主の奇蹟が起こりますⅧ

 

神様はいつの時代もご自身の民に聖さを要求しました。志を与え、御心を行わせました。神様に用いられる者の共通点は聖い心と聖い霊です。今日も同じように主は要求しています。私が聖であるからあなた方も聖でなければならない。あなたは私のプライドです。そう主はおっしゃっています。

 

聖いとは汚れた者を取り除くこと、聖めることです。清められた内側に、イエス・キリストを向かい入れることです。聖さの無い所には主の臨在も奇蹟もありません。主はこのような秘訣を教えて下さったのですから、難しく後ろ向きならずに感謝であると表しましょう。

 

どうすれば身を聖めることができるでしょう。今日の本文のペテロの言葉に対し、「どうすればよいでしょう」と思う人と、心を刺された者だから憎しみをもって石を投げつける人がいます。私たちはどうすればよいのかと進むひとになりましょう。

 

聖くなるためには、第一に悔い改めが必要だということを覚えて下さい。悔い改めのない聖さというのは存在しません。聖霊様が最初に心に望んだ時に、自分自身が罪人であることをわからせて下さいました。主の御前でちっぽけな存在であることを教えて下さったと思います。

 

ペテロもイスカリテのユダもイエス様を裏切りました。しかしいのちを断つかいのちを得るか大きく分かれました。毎日の生活の中で悔い改めの祈りをしなければならないのです。常に聖い心でいる準備をしていなければならないのです。そうしたらイエス様が働きやすいのです。

 

毎日の掃除を思い出して下さい。ほこりが目に見えなくても掃除をしますね。毎日掃除をしていても必ずほこりはたまりますね。同じように知らずに犯してしまった罪に対して悔い改めをしなくてはならないのです。とっても重要なことです。悔い改めと聖さによって、クリスチャンをクリスチャンらしく作り変えていくのです。

 

心に罪をためて暮らすようにしている人は、いつも自分の信仰に自信がありません。イエス様の名によって悪霊を追い出すことができません。自信をもって神様を賛美することもできません。堂々と礼拝できない、自信をもって祈ることもできないのです。

 

それは罪がそうさせるのです。罪責感以上の罪責の念を押し付けます。必要以上の良心の呵責を感じます。そしてイエス様の名を呼ぶのをずうずうしく思うのです。自然に悔い改めができなくなります。神様との扉は厚く、頑なになっていきます。こうして上辺だけの宗教的なクリスチャンになってしまうのです。

 

日常生活でも信仰生活でも愚かで怠け者になってはいけません。その人を通して神様の力が注がれるでしょうか。心をきれいにしている人は礼拝にいく足どりも違います。ときめかせながら来ます。しかし汚れた心を持っている人はそうではありません。

 

まず悔い改めをもって主と交わりを持つ者になりましょう。汚れが続くと汚れていることにも気がつかないのです。悔い改めを先送りしていた時期がみなさんもあったと思います。小さな罪でも絶対許さないこころ、小さい罪にひざまずいて悔い改める心を持ちましょう。

 

神様と自分自身との隔ての壁を壊すことを、神様は望んでいます。内側にイエス様が留まること、そのために悔い改めましょう。天国を持ちたいなら悔い改めましょう。同時にすべきことは、日常生活の中で汚されないようにもがくことです。もがかなければ汚されてしまいます。いかなる罪をも許さないという決断をしてください。

 

礼拝をいのちであるように捧げるのは、賛美と御言葉と祈りがあるからです。エペソ5:26には「御言葉により水の洗いをもって教会を聖めて聖なるものとするためであり」とあります。主は悔い改めと御言葉に拠り私たちを聖めます。多くのクリスチャンは試練から逃げたいと思っていますが、それ以前に心を引き裂くような悔い改めをすることです。悔い改めによって聖霊を賜物として受け止めることができるといいます。聖霊様が奇蹟を起こして下さることを信じます。

 

このような聖められた信仰をもって今の時代に主に用いられる皆さんになることを祝福します。

 

[宣言と恵み]

自信をもって礼拝を捧げる、自信をもって主に両手を挙げる、自信をもって祈り、礼拝する、賛美する、どれもよく考えると簡単なことにようにも思えるし、難しいことのようにも感じます。聖霊様助けて下さい。悔い改めの霊よ臨んで下さいと祈る私となることを主イエスキリストの御名によって宣言します。