御言葉
ローマ人の手紙12 1~2

私たちは、神さまを信じると告白していてても、時に神さまを受け入れない。
主は、私たち自身が主の供え物にならなくては、ならないのに主に供える心がなっていない。

主の中で、一番喜びとするのは、私をささげることだ。
礼拝に霊と誠を捧げなければ、霊が死んでしまう、そのような状態で主に捧げては、それは供え物にならないのである。主は、私たちの乾いた、そして枯れた霊を喜びにならない。
乾いている理由は、主を受け入れていない時や、イエス・キリストの御言葉を信じていない瞬間があるのだろう。
箴言には、こう記されている。
「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし、心をかたくなにする人には災いに陥る。」
私たちは御言葉に本当に頼り、一日一日を主が供にいることを強く信じ、御言葉に礼賛しなくてはならない。

私の家庭を幸せにするのは、礼拝に心を込める。
しかし、御言葉を聞き、従順しないのであるならば意味がないのだ。
私たちは、神様がすべて受け入れてくださると俯瞰する。

だが、神様の恩寵で私たちは許され、そして愛されている。
私たちは、もっとへりくだり、神様の前で、知らない罪も告白し、神様の望んでおられる計画を模索し、いつも御言葉で暮らす進行の人になるよう祈る。
日々の生活でも、教会の外であっても礼拝し、主に似ていく姿になるように、イエス・キリストの御名によって絶えず、努力していきたい。

なぜなら、神さまは、そのような人々を探していらっしゃるからだ。