神様の愛 ヨハネ3-16
『神は実に一人子お与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じるものが、
一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。』
私たちは信仰生活の中で確かに神様を愛してます。しかし時にには神様のことを愛していないんじゃないか?と思うときがあります。そのような自分をみて考えてしまします。神様への愛が環境や感情に流されてしまうんだなと思うときがあります。
私たちは主を愛してます、と告白します。主のために生きて行きますと告白します。
しかしときには私の状況でこの気持ちをもみ消してしまうときがあります。
利己的な考え、によって主の愛を消してしまうときがあります。
『ある執事さんが山に登って転げ落ちてしましました。絶壁のところで枝を見つけてつかむ事ができました。
パニック状態で怖い思いをしました。
助けてください。誰かいないのですか?と叫びました。叫んでも誰も来ず
神さま!この命を助けてください。と祈り始めましたこの命まで捧げて忠誠尽くしますからと叫んだとき、
天から御声が聞こえました。『愛する息子よ恐れるな。私があなたとともにいる。あなたは私の言われたとおりにできるのか?』と
言いいました。執事さんは『もちろんです。やります。』と言いました。
神さまが「ではあなたが今つかんでる枝を離しなさい。」と言いました。
その執事さんは「えつ、手放したら落ちてしまいますよ。と言いました。」
『心配するな、私がお前を助けるから心配せず手を放しなさい。』
それを聞いて、その人は『他に誰かいないんですか?』と他に助けを求めたのでした。
急な時は神様を呼ぶのに神さまが助けようとするときに、自分に合わないからといって切り捨ててしまいます。
これが私たちの生きかたではないでしょうか?
神様を自分自身に、合わせようとして合わない時は、神様の御声をもみ消してしまうのです。
私たちは神様を愛してますといって簡単に主から目をそらします。
私たちのを愛は変わりやすいけれど、神様の人間への愛は決して 変わらないのです。
人が人に対しての愛が変わりやすいのに神さまへの愛はもっとかわってしまします。
人が人に対する愛の心はもっと変わりやすいのです。、
新婚の時にあんなに愛してたが時がたつと変わるのと同じなのです。
私たちの咎のために十字架にかかるときもイエス様の人間への愛の心は変わらなかった。
私が平安を得るために懲らしめられ時も主の愛は変わらなかったのです。
私たちを生かすためにゴルゴダの丘へ十字架を担ぐときも主の心、私たちへの愛は、息がたえるまで変わらなかった主。
このような愛の賛美があります。
『救い主の愛と長しませる血とを、いける限り我は、重ね、がさね、歌わん。
イエスは我の咎を洗い清め、雪のごとく白くならせたもう。』
この賛美ようにイエス様の私たちへの愛は決して変わらないのです。
この愛のイエス様は永遠に私たちとともにいるのです。
神の子であるイエス様はは栄光の姿でこられるべきお方なのに、
1番低い姿でこの世に現れたのです。ヨセフとマリヤの下で、一番悲惨で汚い馬小屋で何の準備もなく
このように2000年前に神の御子が生まれたのです。
薄い布のようなもので包まれてイエス様を抱いたのです。
人間の嫌がる汚い馬小屋でなぜ生まれなければならなかったのでしょうか?
私たち1人1人を愛する心のゆえのためです。
本文のとおりに「神は実にこの世を愛された」といいました。
イエス様は一人の命は世界に勝るといいました。
誰1人も滅びる事が無いために、イエス様は馬小屋でお生まれになったのです。
イエス様は当時のシモベ、奴隷がすることをしたのです。イエス様は弟子達の足を洗ってあげたのです。又イエスは病んでる人たちのところにいって病をいやしてあげたのでした。死んでる人々を生かしてあげました。
このように王の王であるイエス様はこの世に来るときシモベの形をとられて来たのでした。
崇められるべき方が王の王がこのように来られるときシモベの姿で来られたのでした。
謙遜な姿を持って、天の愛の姿を表したのでした。
私があなた方を愛してようにあなたがたもお互い愛し合いなさいといいました。
また、ある強盗に襲われて死にかけてる人がいました。あなたならどうします?といいました。
みんながこの怪我人を見てみないフリをしたのにこのサマリヤの女性は手厚く看護をしたのでした。
あなた達もこのようにしなさい、とイエス様は言ったのでした。
このように主は仕える愛を私たちに教えたのでした。
しかし、このような人間への思いをもって来られた主の愛は片思いだったのでした。
イエス様は人間を愛して救うためにこの地にこられました。
しかしこの世の人たちは愛の王とは認めないで、自分達の生活を豊かにする王として考えたのでした。
このとき主は「私はあなたの精神的な救い主ではなくあなたがたの魂を救う王なんだよ』と宣言しました。
あなた方の魂、世を救うという事を、神の御子であることうを明かしました。
これを聞いた宗教指導者たち、パリサイ人は主を非難、無視しました。主を憎み殺そうとしました。
主が真理の言葉を語るとき必ず妨げたのでした。やがてその人たちは世の審判台に立たせました。
イエス様の顔に唾をかけ、あざけり。こぶしでバ繰り、足でけり、ムチでうちました。ました。
人間への愛を持っていた、主はその人間によって十字架につけられてしまいました。
結局、自分が愛した人間によって十字架で命を落とされたのでした、。
それは私たち人間への変わらない愛の心があるからなのです。
1人、1人を愛しておられ、生かすためなのです。
愛とは、何の値無しに条件無しに、ただ与えるものです。
愛は自分が愛してるゆえ、それだけで与えたいと思う心です。
イエス様は私たちを愛してくださり、この地で死んでくださいました。
私たちがそのような主の愛が分からなければ、
真の神様として仕えずにいるなら、イエス様を私の神として礼拝ですることができなければ
イエス様を信じたとき主に経済だけを満たしてもらおうと考えるなら
本当のイエス様の愛を知らないのです。
このような心ガ私たちにあるなら、イエス様が生きていた、
当時のユダヤ人が主を十字架につけたように私たちも十字架につけてしまうのです。
イエス様を愛してますか、自分の救い主として愛してますか。
私たちの信仰生活とは、私たちへのそんな主の愛を知ってて
私たちも同じような愛をもって神様を愛することなのです。
変わらない私たちへのその愛に対して主への感謝の気持ちをもつことなのです。
イエス様への愛を知っているなら、私の救い主として知っているなら、
私の命が尽きるまで主の愛を、すべての人々に国々にどんな状況でも変わらない神の愛を、
世界中に広げ、キリストの大いなる愛を伝えていく愛の伝道者にならないといけないのです。