主題:神様の愛
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神様に献身しますと告白しながらも、利己的な考えを持つ時に、神様への愛を切り捨ててしまう時があるのです。 それは言わば、神様に対する愛が、自分の感情・環境に影響を受けてしまっているからです。 自分が何か問題に直面した時や、急な問題が起こった時には、何でもするから助けてください、と神様に祈ります。その祈りに神様が答えてくださり、このようにしなさい、と御言葉を与えてくださっても、自分がそれを受入れたくない時は無視するのです。神様を自分の都合のいいように合わせようとして、それが合わない時には、目をそらしてしまいます。それが人間の姿です。 人間の愛は簡単に変わってしまうけど、神様の愛は変わることがありません。 神様に対する愛が感情・状況によって簡単に変わってしまうのなら、人間同士の愛はもっと変わりやすいものです。ある時は燃えるように愛しても、時間と共にその愛が薄れていってしまうのです。 私たち人間は、感情・環境によって愛が変わりますが、神様の私たちに向う愛は変わりません。 神様の愛は、 私たち人間の咎のために、いばらの冠を被らされたときも変わりませんでした。 私たち人間の罪のために、殴られた時も変わりませんでした。 私たち人間に平安をもたらすために、懲らしめを受けた時も変わりませんでした。 私たち人間が病から癒されるために、鞭打たれる時も愛の心は変わりませんでした。 私たち人間を生かすために、十字架を担いでコルゴダの丘登る時も、十字架にかかる時も、息が耐える時も、私たちへの愛は変わりませんでした。 私たち人間に対する神様の愛は、今この瞬間も変わらなく愛してくださっています。そしてこれからも愛してくださるのです。 神の御子は2000年前にこの地上に来られました。神様の子だから栄光を帯びた姿で来ることも出来ました。それなのに、神の御子であるイエス様は、この世で一番低い姿をもってこられました。貧しいヨセフとマリヤのもとに、追われて逃げている途中になんの準備もない、馬小屋でお生まれになりました。なんの準備も整っていない不衛生な馬小屋でお生まれになったのです。神様の御子であるイエス様が、なぜそのような場所で生まれなければならなかったのでしょうか。それは、私たち人間一人ひとりを愛する心があるゆえでした。 一人のそのいのちは世界に勝る、と言われたのです。誰一人滅びることのないために、馬小屋のような低い場所を選んでお生まれになったのです。 そしてまた、当時のしもべがするようなことをされました。ご自分の弟子の足を洗ってあげたのです。人々を癒しをしてあげました。また死んでいる人を生かしてあげました。 崇められるべき王であるイエス様自らが、しもべの形をとられました。人に仕える姿をとったのです。謙遜なへりくだった姿をとって、愛を教えてくれました。 イエス様は、互いに愛し合うべきことを、例え話を用いて話されました。 道中に倒れている人がいました。みんなが避けていったのに、その倒れている人を助けたサマリヤ人を例えて話され、このようにしなさい、とおっしゃいました。(ルカ10:30-37) イエス様は仕える愛について教えてくださいました。 このような人間への愛を持っておられたイエス様の愛は、片思いの愛でした。 人間を愛し、そして救うために地上に来られました。しかし人間達はイエス様を愛の王と認めないで、生活を豊かにしてくれる王だと思ったのです。しかしイエス様は政治的な王ではなく、魂、世を救う王であるとおっしゃいました。それを聞いた宗教指導者たちは、イエス様を殺そうしました。イエス様が真理のことば、いのちのことばを話されるときには妨げ、そしていつも非難した。そして世の審判台に立たせたのです。そしてあざけり、つばを吐き、殴り、蹴りました。ムチで打ちました。人間を愛したイエス様は、人間によって十字架にかけられました。そして愛した人間によって、十字架にかけられ死にました。なぜそこまでしなくてはいけなかったのでしょうか。 それは私たちに対して、変わらない愛があるからです。私たちひとりひとりを愛してくださって、生かすためです。 愛とはなんですか?無条件に、見返りを求めず与えるものです。イエス様は私たちを愛して、この地で死んでくださいました。 私たちがそのような愛が分からないなら、真の神様として仕えられずにいるなら、私の神として礼拝することができないのなら、またイエス様を経済的に満たしてくれる神と信じているなら、それはイエスの本当の愛を分かっていないことです。ユダヤ人がイエス様を十字架につけたのと同じようにしてしまうのです。私の神として仕えていますか。神として礼拝していますか? 信仰生活というのは、神様の愛を知って、同じような愛を持って仕えることです。 変わらないその愛に感謝して仕えることです。イエス様が私の救い主として知っているなら、命が尽きるまでイエスの愛を伝えなければなりません。この世の果てまで大いなる神様の愛を、どんな状況でもかわらない神の愛を伝えていくことを、主イエス・キリストの御名によって祝福します。 <恵みと宣言> 神様。心が痛いです。苦しいです。今まで自分の感情や環境によって神様を何度も裏切りました。 神様がこんなにも私を愛してくれているのに、それを忘れ、目の前の問題や人を恐れて神様を裏切ってきました。もう二度と神様を裏切りたくないのに、また神様を悲しませることがきっとあると思います。神様。神様と同じく変わらない愛を持たせてください。 そして高慢な私を許してください。高慢さを捨てて人に仕える者、高ぶるのではなく、低くなって仕える者としてください。 神様。神様の計り知れない深い愛に感謝します。神様の愛に触れて私が変わっていくことを願います。神様に対してまだ小さいこの愛を、少しずつでも確実に大きくしていくことを宣言します。