御言葉 ヨハネ3:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

タイトル 神様の愛

 

信仰生活の中で確かに神様を愛していますが、神様を愛しているならばこの時は、このように考えてこのように言ったり、行動しなくてはいけないのにと思う時があります。神様を愛しているならば、このように話しなくてはいけないのにと考えてしまいます。

神様への感情は今だに自分の感情や影響を受けています。日々告白しているのにもかからず、私たちは、神様を愛してると思いながら、自分の感情や環境によって神様への愛をもみ消してしまいます。利口それは本当に神様を愛しているのでしょうか。

 

あるヒツジさんが、とても山のぼりが大好きでしたが誤って足を踏み外しました。崖から落ちて、松ノ木の枝を掴むことができました。そして上に向かって叫び助けを求めました。震える心で祈り始めました。「助けてくださるなら、命をかけて忠誠を誓います」と告白すると「神様がいつも傍にいるから、必ず助けるからその枝を離しなさい」と言いました。そのひつじさんは、驚きましたが、しかしそのひつじさんが「神様以外に助ける人いないですか!!」と叫んでしまいました。

 

私たちは、急な問題が起きると神様に助けを求めますが、神様が助けようとしてくださるとき、自分に合わないと考えると助けてくれる神様の助けをもみ消してしまいます。私たちの神様への愛は変わってしまいますが、神様が私たちを愛してくださる心は変わらないのです。

 

ならば、なおさら人間同士の愛。夫婦の愛は変わっていくのじゃないでしょうか。

20代の夫婦は抱き合って寝ます。

30代はとりあえず、向き合って寝ます。

40代の夫婦は天上をみて語らず寝ます。

50代の夫婦は背を向け合って寝ます。

60代の夫婦は別々の部屋で寝ます。

70代の夫婦はどこで寝てるか互いがわからない状態です。

 

このように人の愛というのは、変わります。心も思いも変わるのです。

時間が過ぎていくと愛も薄れていくのです。私たちはその状況によって環境などにより神様の愛は変わるかもしれませんが、神様の愛は変わらないのです。

私たちのためにイエス様が茨の冠をかぶり、兵隊に殴られているときも神様の愛は変わらないのです。

 

私たちを生かすために、十字架を担いでゴルゴダの丘を登るときも神様のイエス様の愛は変わりがありませんでした。

私たちをずっと愛してくださっているのです。今もこの時間賛美の詩のように、私たちを愛してくださり、永遠にいてくださることを信じましょう。

神様の子どものイエス様は、この地上で来るときに一番貧しい、権力の無いヨセフとマリヤの過程を通して生まれました。

そして、ヨセフとマリヤが追われて何の準備なしに、馬小屋で生まれました。

しかし、2000年前に神様の御子何も準備の無い、馬小屋でいきなり生まれたイエス様でした。馬小屋で生まれたイエス様を薄い布で巻きました。今の時代、くさい汚い馬小屋で赤ちゃんを産みたいとは思わないでしょう。神様の子どもである、人間も嫌がる馬小屋で生まれなくてはいけない理由は何でしょうか。

 

なぜなら、神様が私たち一人一人を愛してくださっているからです。

 

そのような低い場所でお生まれになり、弟子たちの足を洗ってあげ、病気の人たちを治してあげました。

崇められるべき、王の王が私たちに謙遜に仕える事を教えてくださいました。そして、強盗にあった人の話をし、その怪我したサマリヤの人の事を例えて話し、あなたがたもこのようにしなさいと愛を教えてくださいました。

 

しかし、イエス様の愛は片思いの愛だったのです。人間を救うためにでしたが、この世の人々は王として認めず、自分の生活を自由にしてくれる王を探しました。イエス様は、人々の魂を救うために来たとおっしゃると宗教指導者たちはむしろ殺そうとしました。命の言葉、真理の御言葉を塞ぎ、イエス様の顔につばをかけ、なぐり、むちで打たれ、人間の愛を持っていたイエス様は人間によって十字架にかけられ、殺されました。なぜイエス様はそこまでしてくださったのでしょうか。

 

なぜなら、イエス様が私たちを助けてくださるためにとても愛してくださったからです。

愛は、条件なしに与えるのです。イエス様は私たちのために死んでくださったのです。

 

今もこの時間、神様は私たちとともにいてくださっています。私たちが、神様の御前で自分も知らずして犯した罪、そして知ってて犯した罪、そのときもイエス様は私たちとともにおられるので知っているのです。どれほど、イエス様は胸が痛かったのでしょうか。私はもう一人の体でなく、イエス様とともに歩む神様とセットなのです。神様はそれほど、私たちを愛してくださっているのです。だからこそ、神様に従順し神様を喜ばせなくてはなりません。

 

今日も明日も永遠に変わらぬ愛を持ってくださっている神様、自分の体を打ちたたいてではなく、むしろ喜んで従順していきます。もし、私の体が反発するならば、打ちたたいて従順します。それが神様の喜びで、私の喜びですから!!!!

宣言したとおりになりますようにイエス様の御名によってお祈りします。