日本語:什分の一献金(ソ・ギソン執事)
目から鱗が落ちる説教でした。まさに私が抱えていた疑問をこの説教で解くことができました。ハレルヤ!
私も来年の収穫に備えて、パン種をしっかり捧げて、畑を管理していく者になります。たくさん収穫して、たくさん神様に感謝を込めて捧げていきたいです。
今年、主は私に御言葉をくださいました。
ヨハネ4:35
あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
そうです。間もなくイエス様がやってきます。その前に刈入れの時期もやってくると思います。それは多くの神様から離れている魂を刈り取る時期です。
その日が来た時、今の私に何ができるでしょうか?その時に備えて準備します。
この地が暗闇におおわれる前に、一人でも多くの魂を神様のもとへ返します。
その働きのために、しっかりパン種を捧げ、準備していく私となることをイエス・キリストの御名によって宣言します。
この動画見て十分の一献金の意味を理解できました,神様の愛を感謝します。
神様のために働き私と私の家庭の命のために種とパン捧げて神様の約束の祝福を受ける私になることをイエス様のみなによって宣言します。
信仰をもって、種をまくものになります。
豊かな農作物とその種をくださる、神様に感謝しながら、真心こめて、十分の一を捧げるものになります。
神様のくださる種が、物質だけではなく、その十分の一を捧げることによって、
私の中で義の実が成長し、信仰が増し加えられることを感謝します。
霊的において、物質において、豊かに祝福を受ける私になることをイエス様の御名によって宣言します。
このメッセージで私は「なるほど〜」と思ってしまいました。
神様は最初から例えでいうところの、じゃがいもと、種いもをくださっていたんだと知りました。
それならばなおさらしっかり種をまかなくては!と思いました。
昨日銀貨2枚を献金した女性の心について黙想しました。
私は信仰の無いもですが献金を捧げます、主が憐れんでくださり、尊いものに作り替えてください、という心を込めました。
心を捧げる、と言いますが、それが一番難しいことだと思います。
2匹の魚と5つのパンのように、素直に主の御前に持って出て行く、そこに心をいつも込められるものになりたいです。
私が尊く捧げられるように作り替えられて行くものになることをイエス様の御名により宣言します。
【日本語訳】
ハレルヤ!
私は就職してから、十分の一献金を始めるようになりました。
献金をしているうちに、急に十分の一をささげられない状況になりました。
ただ宗教生活をしていた信仰のない私には、神様が聖書でおっしゃった十分の一献金を
信じて従順することが出来ず、つらい状況でした。
けれどその時、私にいつも温かく接してくれる友達のお母さんがいました。
わたしはその方に打ち明けました。
「十分の一献金をする状況ではありません。」
その時、その方が言いました。
「たしかに今は、一をささげることが難しいかもしれないね。
だけど神様が十をくださったのだから、それを信じて一を神様に捧げることはできないかしら?」
私はその方の話が納得できたので、このように思いました。
「そうだわ、神様が十をくださったことを信じれば、一を神様に捧げることはもったいないことではないわ…」
このように考えて、わたしは十分の一献金をつづけていましたが、
実は、これもまた勘違いの考えだったのです。
私にはいつも十分の一献金に対して疑問がありました。
「本当に信仰の問題なのか?なせ神様は十を下さり、一を取られるのかしら?
いっそのこと九だけ下さればいいのに、なぜ一で私に信仰のテストをするのかしら?」
そんなある日、十分の一献金についてある講義を偶然聞きました。
(第Ⅱコリント人への手紙9章10節)の御言葉でした。
「蒔く人に種と食べるパンを備えて下さる方は、あなた方にも蒔く種を備え、
それを増やし、あなた方の義の実を増し加えてくださいます。」
この御言葉は、神様が私たちに十を下さるとき、
神様が既に「私たちが食べるパン」と「種」とを区別されているということでした。
例えば、ジャガイモを農作するとき、ある年の収穫が100袋だったら
それを全部売ってしまうのではなく、来年の収穫の為に10袋を残して種を作ります。
その10袋が種イモになり、次の年に農作が出来るのです。
10袋を残さず100袋全てを売って食べてしまったら、次の年の農作は出来なくなるのと同じです。
十分の一献金は神様のためではなく、
「あなたの為に、天の宝物庫に納めなさい。そうすればそれで私は次の種と食べるパンをあなたにあげよう」
という神様の御言葉です。
そして、マラキ書で、十分の一献金を捧げられない人のことを
「神様のものを奪う泥棒」だと言われていることも分かるようになりました。
神様がその御手で種として分けられたものを全部食べてしまうというのは泥棒と等しいからです。
多くの人は、「神様は十をくださり、一を返すかどうかを試す方だ」
という誤った考えを持ちながら生きています。
十分の一献金に対して、教会でしなさいと言われるからしたり、
献金をしていないと周りに知られるんじゃないかと気にしたり、
献金はとりあえずするけど、このお金は全部教会で使うのかな?などとよくない考えが入ってきたりします。
しかし私は、十分の一献金が自分の命の為に農作することだということを
御言葉で悟ってからは、良くない考えを捨てることができました。
十分の一献金は、信仰の問題ではなく、私と私の家庭の命の問題です。
天地を治め、すべての万物を治められる神様がこのように語られました。
「万軍の主は仰せられる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。
こうしてわたしをためしてみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」
このように語りながら、神様は「十分の一農作の時、私がイナゴをしかり、
あなた方の土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のブドウの木が不作とならないようにする」
と約束してくださいました。
正しい十分の一農作を通して、正しく神様の約束の祝福を受ける
私と皆さんになることをイエス様の御名により祝福します。