泥沼(どろぬま)の中で遊ぶ子供は泥が汚いと思わないんですね。
私はイエス様を信じて、主の前で自分は罪人だと言ってはいましたが、
どれだけ罪人なのかよくわかりませんでした。
ところがある日、主の前で完全な罪人として立つことになりました。
恥かしい思いと、苦しい思い、恐れている罪人の姿でした。
時間が経って、私は自分に起きたあの2ヶ月半のことが、本当に気になっていました。
いったい、私に起きたことは何んだったんだろう?
言葉で表現ができないほど苦しかったあれは一体何だったんだろうか?
主は二ヶ月半の間、罪とは何かを悟らせて下さいました。
悪の泥沼で寝転がっていながらも悪に気付いていなかった私の心の目を開けてくださいました。
罪を認識できずに生きていた時のすべての罪に対して、全神経が集中される思いでした。
これは霊的なものではなく、生々しくぶつかってくる現場でした。
罪を見せられ、知ってからは、罪が恐ろしくて怖くなりました。
数ヶ月が経った今でも、その時の恐れと恐怖感は表現できないほどです。
私達は自分の罪をすべて知ることができないので、強がったり、言い訳を言ったりします。
しかし、神の前で自分の罪を見せられ、知らされるなら、恐くてふるえるしかないと思います。
罪の多くの部分を取り扱ってくださいましたが、最も大きな罪は、言葉に関するものでした。
私たちの言葉には、若干(じゃっかん)二重性があります。
その二重性とは、例えばこんな事ですね。
土曜日に、教会学校の子供たちと公園に行きました。
その公園には大きな木と木を繋げて作っておいた高いブランコがありました。
大きい子供たちが乗るにもちょっと怖く見えました。
ところで列に並んでいた大きい子供たちがこう言うのです。
"先生!小さい子供たちは危ないからだめですよ。本当に危ないですよ。 "
幼い子供たちを見ると、すごく乗りたいという思いと眼差しで私を見ていました。
そして私は、大きい子供たちにこう言いました。
"大丈夫、先生が支えてあげれば乗れるよ!"
ところが一人の子供がこう言うんですね。
"先生!小さい子供たちは危ないからだめですよ、ダメだよ!ダメダメ。
向こうでボール遊びをした方がいいんだよ! "
この子が言ったように幼い子供には本当に危険なので心配で言ったかも知れません。
しかし、心の中には、早く順番が回ってたくさん乗りたいと言う心もあったはずです。
例え話ですが、このように言葉の中には、潜んでいる多面性があるんですね。
子供の言葉だから、簡単にわかることであって大人にもあります。
ところが、その二ヶ月半の間、心の両面性の中、隠れていた私の悪を、主は暴き続けたのです。
自分の中に意図的によくなかったものも暴かれ、意図的でなかったものも、暴かれたのです。
どんな言葉を言っても、すべてが狂ってしまう状況と環境にされているように思ったほどでした。
私は、隅に追い込まれ、これが結論なのだと言わんばかりの状況に置かれていたので、あきれていました。
言葉というのが悪だとは分かっていたけれど、こんなにも悪いものだったんだな。
自分の口から出た言葉によって私の全てが汚れてしまうという事、
どのような無益な言葉でも、神の前で裁かれることになると言う御言葉。
主の御言葉は真理を超える真理で
そして、二ヶ月半の間、私の罪はさらに罪とされ、罪を増大させたものがありました。
この考えを受け入れたことで、悪きものどもは、ずっと私を罪に定め、挫折させてきたのです。
このような邪悪な私と神様は共にいる事はできないんじゃないかという思いと、
恐れとの戦いをあきらめたいと思うように仕向けていくのです。
しかし、最終的には、サタンは私を滅ぼすために、私の罪を増大化させたけれど、
むしろ、二ヶ月半の間、自分の中にある罪によって、
私は地獄に行くしかないということを徹底的に教えられた時期となったのです。
そして、希望のない私に、希望をもたらす十字架を見あげるようになりました。
聖書には、心で思うだけで姦淫の罪だという御言葉。
もし目が罪を犯したなら目をえぐり出しなさい、腕を切ってしまいなさいという言葉。
私は神様が私たちに願っておられる聖さは、どれくらいの聖さなのかを少し分かるようになりました。
私たちの話す言葉の中には、私たちが知っていようが、
なかろうが、自分の魂に影響を与える悪い言葉が入っているのです。
悪い言葉は私たちのすべてを汚し、自分を汚すものでした。
私たちが気付かないチリのような罪でも、神は何千倍の顕微鏡を通して見い出しているようでした。
神様の聖さに及ぶ者は誰一人もいません。
神様の御心にかなった聖さを成して、天国に行ける者は、
本当に誰ひとりいないことを知ったのです。
そして、主の血潮に頼る方法がわかってきました。
私達の毎日は、霊的な戦いだと言われていますね。
自分の行動や、また自分の口から出された言葉がどれだけ悪なのかを知っているとしたら、
それらの言葉としょっちゅう戦うべきです。
その一瞬一瞬というのが、どれほど短いのか分りません。
私はこの霊的な戦いにおいて、御前で100%勝利できる人は誰もひとりいないということがわかりました。
主に頼る方法を知らなければ、その戦いでみじめな敗北者として残されてしまうと思います。
言葉を話す前に葛藤し、祈る心で神に頼らなければなりません。
ですから、毎日瞬間瞬間が霊的戦いであることを教えられたのです。
何を悔い改めなければならないのか、
どのような言葉が悪かったのか、どのような行動が間違った行動なのかわかるように
、主に頼っていかなければならないのです。
自分の罪が分かった、分らないかったとか、また認めることとかは、それほど重要ではないのです。
悪とされたら、すぐ神様に、赦しを求めるようになりました。
二ヶ月半が過ぎたいまの私に、大きな確信と変化があるとしたら、罪に対して挫折しなくなったことです。
一つの罪によって、津波のように罪たちが追いかけてくる時があります。
すると私は、その罪の虚像らを受け入れることはできないと告白するのです。
二度と、二ヶ月半のあの恐怖に戻りたくはありません。
私の意志や考え、すべてを、主にささげます。
何も自分の力ではしようとしません。
これは、もう私は罪を犯さないということではありません。
罪を取り扱う方法を、訓練を通して、知っていく過程だと思います。
波のように押し寄せて来る罪に倒れるのではなく、
波の上でサーフィンをするように自由に波に乗ることができるように訓練している感覚です。
主の血潮の力の中で、
私がこの訓練の中、勝利を確信できる秘訣があります。
それは、まさにへりくだった謙遜な心です。
主の前で私がずっとへりくだった心でいるなら、私は勝利することができます。
私の心が低いところから離れることなく、主だけを頼るなら、勝利することができる事を信じます。
これこそが、主が私に願っておられることだとわかりました。
本当に低いところに留まる事を切に願います。
絶対に低い所から逃げ出すことがないように、主よ。助けてください。
恐ろしかった二ヶ月だったけれど、私が低い所に留まっていなくなったとしたら、
もう一度、ひどい目に遭わされても、いいですから。
主よ、低いところから離れないように私を導いてください。
自分が死んでこそ、主に栄光を帰すことができます。
自分が死んでこそ、神様の方法が示されます。
主に栄光を帰すことができるように、思い切り、主に用いられることを願います。
主の血潮に頼り、清められ、主だけを頼り、
勝利する私と皆さんになる事をイエス様の御名によって祝福します。