私たち皆はメッセンジャです!と牧師先生が言った言葉、皆さん覚えていますか?
最近、先生のその言葉を、たくさん考えました。
講壇で証を語る時も、私たちはメッセンジャとして立つべきだと信じます。
また生活の中でもメッセンジャの姿であるべきだと思います。
そのためには、神様の心を常に求めなければならないことを信じます。
ところで、私たちはメッセンジャーとしての心構えはどうですか?
伝えるべき対象が自分より年下なら、心が少しは軽くなるのでしょうか?
あるいは、年を取っており、自分にとって苦手な人なら、語りづらいのでしょうか?
いいえ、そうではありません。
伝えなければということだけで、対象が誰であれ、心は重いと思います。
しかし、どのような対象であれ、私たちは神様が下さったみ心を伝えなければならないのです。
神様のみ心は何よりも重要だからです。
御心に対してためらったり、自分の考えかもと思い、切り捨てるのは、
自分にとって、罪になることだというのを悟りました。
また、伝えるべき相手は、御心を逃がすことになってしまうのです。
相手の魂を生かすためにも、チャンスを与えるためにも
他の道に行かないように時間を与えるためにも、
そして重要なことは罪を犯さないようにするためにも
主が下さったみ心を主の心をもって、伝えなければなりません。
これはまさに、魂を生かすか殺すかにかかわる問題であるからです。
伝える、ということはとても重要なことです。
私たちがこのように信仰が成長したのも、三人の牧師先生が
主が下さったみ心を、愛を持って伝えてくださったから、今日の私たちがいることと信じます。
伝えてくれる人を信頼すること、信じることは、二の次の問題です。
魂が悟るか悟れないかも、二の次の問題です。
もし伝える人がいなくても、相手が先に悟ったとすれば、問題にならないが、
そうでない場合は、神様の心を悟らずにいることになるでしょう。
あるいは、悟るのに長い時間がかかるかもしれません。
また、悟るまで他の道に行ってしまうこともありうります。
伝えることにおいて、また重要なことがあります。
それは主の心をもって、神様の時を待ちながら、祈り、
主の愛で伝えることです。
なぜなら、自分と同じように、他の魂も神様は愛しておられるからです。
私を通して与えられた神様のみ心であっても、
結局、伝えるべき魂のためであることを、私たちはよく知る必要があります。
ですから、伝える者の心構えは、どれくらい謙遜でなければならないのか、
どれくらい武装されなければならないのか、
どれくらい神様のみこころを思い巡らすべきなのかを、
私たちは探り、祈り求めなければならないことを信じしょう。
ただ主の、み心を求め、主が下さる愛を持って
正しいメッセンジャの役割を果たす私になることをイエスのみ名で宣言します。
魂を愛する心を求め、主が下さった心を持って大胆に伝える私たちになることをイエス様の名前で祝福します。