私の家には子供の聖書童話全集があります。

その本は分厚くて、1ページの中に文字数も多くて、 子供に読んであげるには、

心を決めなければできないほどのものです。

心を決めて読んであげるよと言ったら、今だと子供は十冊くらいを持ってきます。

いろんな祈りの題目を浮かべてとりなしている時、神様が下さったみ心が、ありました。

それは、私たちに神様が望んでおられる、信仰の在り方のことでした。

 

子供が持ってきた本の中には、エステルの物語がありました。

ペルシヤの, アハシュエロス王は, 催した宴会で、王妃を連れて来るように命令をします。

しかし、彼女は拒みました。 王の命令を断った、王妃ワシュティは王宮から追い出されます。

そして新しく王妃の席に座ったのが、ユダヤ人のエステルなのです。

当時、高い地位であったハマンという人は王を誘って、 民たちが自分にひれ伏すように命令を下します。

しかし、エステルのいとこのモルデカイは、彼にひれ伏そうとしませんでした。

気分を悪くされたハマンは、モルデカイを殺すために、彼の同族(どうぞく)である、

ユダヤ人すべてを根絶やしすることを、企むのです。

この企みを知ったエステルは、モルデカイをはじめ、 自分の民族を救うために、断食しながら祈ります。

祈っている中、神様はこの本を思い起こしてくださいました。

民族を救ったエステルの信仰の事でした。

終わりの時を生きていく、私たちに、エステルのような信仰が、 絶対に必要だという心でした。

エステルの、有名な告白があります。

エステル4;16「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日(みっか)三晩(さんばん)、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女(じじょ)たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」 

私たちには、代価を払おうとしない心、 どうにかして、この状況から逃れることができるならば、

逃げたいという心が、誰にでもあるようです。

頭では知っているけれど、代価を払おうとはしません。

エステルは少しだけ、心を変えれば、自分の命は助かることができました。

そして、王の好意を受けることもできました。 しかし、エステルは、その逃げる道を選びませんでした。

彼女の信仰は、逃げるのではなく、神様だけを頼る代価を払った信仰だったのです。

 

民族を救う使命を果たすために、王妃になるまで備えてきたエステルをみて、私の人生を振りかえてみました。

訓練の中に、置かれていた時を思い出しました。 2012年、牧師先生の叫びで出港した船の事を思い出しました。

牧師先生が言ったとおりに、多くの暴風や荒波と戦う時もありました。

その中で、暴風を恐れて、船から離れて戻ってしまった人もいました。

緊張感が漂う中、一か月、一か月が過ぎて、もう船は港に向かっていることを主は教えて下さいました。

私は港に着く何か月前の今、何を成し遂げ、何が準備されているのか、 自分の使命のために、

どのくらいの使命の服が着せられているのか、緊張し始めました。

苦しい状況の中、死にますという信仰を持って、立ち向かっているなら、 私たちには必ず、使命の服が着せられつつあることを信じます。

しかし、信仰の代価を払わないで、避け道ばかり探していたならば、私たちはまだ裸の姿でしょう。

エステルには 死の恐れより全能なる神様を頼る信仰がありました。

今の時点で、神様が私たちに望んでいるのは、まさにこのような信仰だと信じます。

十字架の代価の支払いを避けなかったイエス様のように

死ななければならないのでしたら、死にますと、

死に立ち向かうという代価の支払いを恐れなかったエステルのように、

死を乗り越え、信仰を守った、 聖書の信仰の先祖の姿が、私たちの姿になることを願います。

 

この道が、苦しいと言って、難しいといって、 あきらめる愚かな私たちにならないことを願います。

最後まで祈って、信仰を持って、勝利をし、 主が下さる光の使命の服を着せられ、

主の働きを成し遂げていく私と皆さんになることを願います。

もうこれからは、避けるのでなく、信仰の代価を喜んで支払い、

主の勝利に共に参加する、私と皆さんになることを主のみ名で祝福します。