この証が主の喜びとなることを願います。
一緒に分かち合うみ言葉は、コリント人への第一の手紙13章11節の御言葉です。
『私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。』
命がある、すべてのものは、成長して行きます。
小さな種が植えられ、木へと成長するように、
赤ちゃんが生まれ、少年、中年、老年を経ていくように、命のあるものには、成長段階があります。
ところが、このように、目に見える肉的なものだけでなく、目に見えない霊的なもの、
私たちの信仰も、命あるものだから、成長段階があります。
2013年が始まるに当たり、主から与えられたみ言葉は、「成長しなさい!」と言う事でした。 これからは成長しなさい!
今までの時間が、神様が私を癒し、回復して下さった時間であったなら、
これからはさらに成長していく時だと主はおっしゃいました。いただいた恵みに満足し、子供の信仰のままとどまっているのではなく、
さらにもっと霊的に成長することを望んでおられる主の心を悟らせて下さいました。
そして成長期の子供は、成長の中、成長痛があるように、痛くて苦しいけど、
自分が主の御前に完全に砕かれなければならないということを教えられました。
昨年1年間、主にあって必ず死にますと、走ってきたと思います。
しかし、振りかえってみると、まだ、主の中で完全に死んでいない自分の姿がありました。
問題の前で恐れて、諦めようとし、逃げ出したい自分の姿がまだ残っていました。
その問題の前で、完全に神様だけを見上げるのでなく、崩れてしまう自分の姿があったのです。
しかし、このような私に、主は、私の手を捕えておられるとおっしゃいました。
あなたの目には見えないが、私はこのようにあなたの手を握っていることを忘れてはならない
とおっしゃいました。
そして、主が支えておられる事を、私の手を取っておられるということを私の手を通して直接感じさせて下さったのでした。
砕かれることが好きな人はいないでしょう。
痛く苦しいことを好む人もいないと思います。
私もそうです。
たまに、回りから、
『どうしてあなたは、苦しんでいながら信じているんですか?』
『ちょっと変わっているね』と、言われる時があります。
そのような話を聞くと、違うよ!と思いながら、心の一方では、
私も、もう少し楽に、もう少し楽に暮らしたいのにという、よくない考えが時々浮かぶ時もあります。
しかし、砕かれること無くして、成長することはできないから、
主と共に、主が歩まれた、その狭き道を歩むことはできないから、
砕かれるために、自分自身との戦い、また霊的な戦いを、止めることができません。
霊的な成長の過程で、時には後ろに下がるような、大変な危機にぶつかる時もあります。
でも、実は、その事を通して、神様は私たちを信仰の道へと、前に行かせて下さることを信じます。
雨降った後、地が固まるという言葉のように、主が許された訓練の時間に、
私を、また、私たちを、より一層成熟した信仰へと成長させるための、主の恵みの時であると信じます。
神様に砕かれるその過程の中でも、ただ主だけを見つめることができる信仰の上に固く立つ私になることを願います。
そして、もう一歩進んでは、いかなる自分でも乗り越えられる信仰を持って、主の使命、主の御心のために進んでいく私になることを願います。
私の信仰のなさによって、私に対する主のみ心を遅らせることがないように。
私を捕えている主だけそ信頼して、信仰によって応えられる、私になることをイエス様の名前で宣言します。
どんな時でも、主だけを見つめて、信頼する成熟した信仰をもって、
神様が、下さった使命を果たし、主に喜びと栄光を返す、
私たちになることを、主イエス·キリストの名によって祝福します。