ハレルヤ!主に喜ばれる証になり、私の信仰の宣言になることを、願います。
何週間前に、いただいたみ言葉を、分かち合いたいと、思います。
たくさんの恵みと悟りを下さった神様に感謝します。
祈っているときに、主は、ダビデがサウル王を逃れ、どのように逃げていたのかを、
見て見なさい、という心を下さいました。
それで、私は、サムエル記上を読みました。
ダビデはサウル王を逃れ、イスラエルと敵対国である、ガドの国に入ることになります。
そのガド王である、アキシュのところへ行くことになります。
そこで、ダビデは、ガド王、アキシュを大変恐れて、その前で、気が狂ったふるまいをします。
ダビデは、神様に認められた者でした。王の油をそそがれた者でした。
神様から選ばれ、神様の約束を受けた者でありました。
戦争でゴリアテを殺した彼が、気が狂ったふるまいをする、ということは、
本当に自分にとっては、悲惨で、大変なことだと思いました。
そして彼は、サウル王を、何度も殺すチャンスがあったのにもかかわらず、
彼を自分の手で、殺しませんでした。
サウル王を殺したら、ダビデ自身がすぐ王になれたのにも、彼は神様が働くまで待っていたのです。
そして、サウル王も、神様から、油を注がれた者であることを、知っていた、
ダビデは、彼に、直接、手を、触れませんでした。
私はダビデが逃げる所、所で書いた詩篇を読みました。
大変な状況の中でも、前に何も見えない苦しみの中でありながらも、彼は主に、
不平不満を言いませんでした。
彼はむしろ、主を賛美していたのです。もっと主のみ名を高めました。
彼が神様を求める、その切なさ、乾きを見て、心が痛くなりました。
神様から何の答がなくても、彼は昼も、夜も、神様を求めていたんです。
このようなダビデの信仰を、神様は、私に悟らせて下さいました。
そしてまた祈っている中、主は、ダビデの逃亡生活で、神様がどのように、
彼とともになさったのかを見せて下さいました。
彼が身を避けるべきの時には、助けのみ手をつけてくださり、
また、彼に慰めが必要な時には、慰めのみ手を送って下さったのです。
そのダビデの信仰、大変な、絶望の中でも、神様を賛美し、褒めたたえたその信仰、
神様に答えられなくても、最後まで神様を待ち続ける、忍耐の信仰が、とても素晴らしいと思いました。
ところが、私には疑問が出てきたのです。
自分の生活が大変で、苦しいから、主を切に求めるんですね。
ダビデは固い信仰があるがゆえに、すさまじい状況でも挫折しなかったのではないでしょうか
しかし、これがすべてではないような、気がしました。
他に何かが、あるような、気がしたんですね。
そして、神様に問い続けました。
“主よ!信仰の先祖たちが固い信仰を持っていたことは分ります。
しかし、他に何かがあるようなんですけど、それって何でしょうか?“
“ペテロが十字架に逆さまにかかって殉教することができたこと、ステファノ執事が石投げされても、
笑えたことは、一体何でしょうか?”
このように、ずっと聞いていたら、主は、私の心に教えて下さいました。
彼らにあったのは、彼らは主の中で、主にあって、真の喜びを味わった者である、という事でした。
十字架の道を歩む、ということは、絶対に簡単なことでは、ありません。
主は言われました。
マタイによる福音書10章34節です。
『わたしが来たのは、地に平和をもたらすためだと、思ってはなりません。わたしは、
平和をもたらすために、来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。』
そのような人だけが、十字架の道を歩むことができるのです。
大変な状況や、苦しい状況の中であっても、主にあって楽しめる真の喜び、
ダビデがあんな状況に陥っていても、最後まで、神様を賛美することができた、その理由、
ペテロが十字架に、逆さまになって、殉教することができた、その理由、
ステファノ執事が、石を投げられても、平安に死ぬことができた、その理由、
聖書の信仰の先祖たちが持っていた、そのもの、
自分の肉は大変で、苦しいながらも、霊は、主にあって、喜びを楽しんむ者であるがゆえにできる、
ということを、主は教えて下さいました。
私も、どんな苦しみの中でも、主と共に、真の喜びを味わう者になりたいです。
主と共に、真の喜びを楽しみながら、十字架の道を歩む、私になることを、
イエス様の御名によって宣言します。
信仰の先祖たちのように、肉は痛くて、大変とも、私の霊は、
主と共に、真の喜びを味わい、十字架の道を歩む私と皆さんになりますよう、
イエス様の名前で祝福します。