2014年 8月11日 日本語 (ジョン・ジウン神学生)礼拝を待っておられるイエス様!
礼拝によってどれほど私は助けられたことでしょう。数えきれない主の助けと導きがありました。私がこのアガペチャーチに導かれたのも、木曜プニューマでの礼拝でした。その時の賛美と説教を今でも忘れることができません。
そんな神様に対して私はどれほどのものを返してこれたでしょうか。感情が良くない時に主にそれをぶつけている私がいました。仕事が忙しく礼拝に来れない時もありました。私は主が喜ばれる物をほとんど捧げることができませんでした。でも、ある時に決断したことがあります。それは詩篇でダビデが告白したように、どんな時も感謝と喜びをもって主に栄光を返すことでした。昔のように礼拝の中で見返りを求めることもなくなりました。ただ主の栄光のために礼拝しています。私の心を満たすために礼拝するのではなく、ただ主が喜んでくださる礼拝を捧げたいのです。毎週、ただ習慣的に捧げるのではなく、いつもこれが最後の礼拝だと思って賛美したいのです。
そして、できることなら生活の中で、仕事の中でも主を礼拝するような私になりたいのです。
そのためにもっと悔い改めて、謙り、素直な心で、主に感謝と喜びの賛美を捧げていく私となることをイエス様の御名によって宣言します。
私はありのままの姿で主にお会いすることを気を付けていました。
でもこの動画を見て、礼拝のために自分を準備させるという代価を支払わなくてはならないのだと思いました。
恵みは一方的に神様から与えられるものであり、自分が良くても悪くても、恵みを受け取るための心が開いているかどうか、注意しなくてはならないと、先日先生が仰っていました。
礼拝は私たちが生きたささげ物を捧げる場です。
毎回の礼拝ごとに自分を捨てて十字架にかけなくてはなりません。
これからはもっと集中して、礼拝のために準備し、それでいてありのままの素直な姿で、低い姿で、自分を捧げて行くことをイエス様の御名により宣言します。
【日本語訳】
ハレルヤ!
木曜日には木曜プニューマ礼拝があります。それで私は自分なりに働きながら礼拝を準備しています。
ところがある木曜日、その日に限って、色々と複雑な思いにもまれ、あせっていました。
心が落ち込んでかなり辛かったのですが、礼拝の時間になり、自然に教会へと足を運んでいました。
しかし、今の自分の姿のままでは、主の前に進み行くことが出来ませんでした。
なぜなら、礼拝は自分の状況や感情とは関係なしに、ただ主の御名をあがめ、主の御名だけを賛美し、主に栄光を捧げる、とても大事な時間だからです。
私は苦しみながらイエス様に叫び祈りました。
「イエス様!自分の苦痛と苦しみを抱えたまま、あなたの前に近づくことがないように助けてください。」
「自分の環境や状況が辛いからといって、主の前に涙で進むようなことがないように、主よ!助けてください。」
「本当に主に喜ばれ、受け取られる礼拝を捧げたいです。主にだけに心が集中出来ますように、イエス様、助けてください。」
「私の人生の中でこの礼拝がどれほど大事なのか、この礼拝の時間が私の中でどれほど待ち望んだ時間なのか、主よ!私の心を知っておられますよね。」
このようにお祈りをしていると、イエス様が 『私もこの時間を心から待っているのです』と語ってくれました。
私は感謝と申し訳ない気持ちで何も言えなくなりました。
あれほど私の心の中で騒ぎ立っていた、荒々しい波のような心は静まり、喜びと感謝の心が溢れました。
皆さんは どんな心で主の前に行くのでしょうか。
イエス様は私達の礼拝を、礼拝の時間を切に待ち望んでおられます。
主の前に自分の状況や感情を抱え込まず、ただ喜びと感謝でイエス様の御名をあがめ、賛美する、真の礼拝者の姿で進み行く私と皆さんになる事を願います
まさにこのような人が誠に幸いな者であることを信じます。
主の前で真の礼拝者として、主に喜ばれる礼拝を捧げる私と皆さんになる事を主イエス.キリストの御名によって祝福します。
礼拝は、私の命よりも、大切なものだと、私は考えています。
私にできることは、何もないのですが、ただイエス様の心を知って、礼拝をささげるとき、それだけでも、イエス様は本当に喜んでくれました。このような、小さなことでも主は喜んでくれるのですから、主の栄光のために、礼拝のために、心を尽くして準備するなら、どれだけ、主は喜び、栄光があふれるのでしょうか?
命ある限り、まことの礼拝として、主に喜ばれる、礼拝をささげることをイエス様の御名によって宣言します。