2014年 12月15日 日本語 (나카무라 치에신학생/仲村千恵神学生)もっと成熟したキリスト者になりましょう!
主から与えられたすべての環境に感謝するばかりです。
もっと、もっと、渇いた心をもって主の御前に進んでいきます。
主に満たされる私となれるよう、信仰にあってもがいていくことを主イエス・キリストの御名によって宣言します。
예배드릴 수 있도록 인도하신 주님의 은혜를 다시한번 되새기며
감사함으로 주님께 나아가는 자가 되어질 것을 주 예수 그리스도의 이름으로 선포합니다
환경에 지지 않고 더욱 감사하고 기뻐하는 자녀 되겠습니다.
더욱 주님 사랑하는 제가 될 것을 예수님 이름으로 선포합니다.
礼拝に参加できる恵みを改めて考えます。そして、今までの自分の態度を悔い改めます。
私の命であり、希望であるイエス様を礼拝できることにいつも新鮮な感謝をもって捧げていく私となることを主の御名によって宣言します。
イエス様は私の命です。
毎日毎日肉をムチ打ってイエス様に近づいていくことをイエス様の御名で宣言します。
私は神様の恵みだと思いますが、救いを受けたときから、礼拝が我が命であり、その命ある方に対して、礼拝に対して、
緊張感をもってきました。私がそのような思いになったのは、まさに主が、私が堕落しないように
聖霊様が導いてくれたおかげだと今は深く感謝しています。私の体、環境を超越して、いつも主に対して緊張感をもって
礼拝にでていくことをイエス様の御名によって宣言します。
더욱 감사함으로 기쁨으로 하나님 앞에 나와 예배 드리는 자가 될 것을 예수님의 이름으로 선포합니다.
当たり前のように思っていたことが、誰かには一生の願いのようなものかもしれません。
もっと感謝をし、成熟しものになるよう、願います。
もっと礼拝を恋い慕って、熱心に捧げていく私になるよう、イエス様のみなで宣言します。
北海道に三橋萬利牧師という方がいらっしゃいました。小児麻痺を煩い、自分で歩くことの出来なかった牧師先生でしたが、いつも牧師婦人が背中に背負い、伝道集会などに至る所飛び歩いていた方でした。
ある日私はラジオの説教を通してこの牧師先生がキリストイエスにお会いした時のことを語っていました。
不自由な身体で自分ではどこに行くことも出来ない、この自分の人生の意味は何か、その答えを知りたくて聖書を読みふけ、教会に行くことを恋い慕っていました。
当時先生は近所の子どもたちにお小遣いを握らせて、頼むから自分を教会まで運んでくれないかと、リアカーで教会に行ったそうです。
自分で働くこともままならない方が、主への献金と、行き帰りのリアカーのお駄賃とをかき集めて主日に備えるのです。
行きはまだよくとも、帰りは誰も家までリアカーを引っ張ってくれなかったり、リアカーを引っ張る子ども達が、疲れて途中で辞めたくなったりするのを、一生懸命なだめすかして通ったそうです。
周りは奇異な目でその光景を見ます。雨や雪が降った日は大変です。
そのことを証しながら厳しい口調でこうおっしゃいました。
「みなさん、今私は牧師になって、このように結婚もでき、子どもも授かりましたが、ここまで平穏だったわけではありません。今日は教会までたどり着けるかどうか、いつも必死の思いでした。でも私は教会に行ったら何か自分の探しているものがあるのではないか、人生の答えがあるのではないかと渇望していました。」
先生にとって教会に行くことは命がけであり、真剣勝負であり、大きな希望だったのです。
そしてこういいます。「代価を支払わなくちゃならないのです。聖書には自分の努力ではなく、聖霊様に委ねよ、と書かれています。確かにそれは真理です。しかしそれに甘んじて、自分では何も代価を支払わずに恵みだけ受けようと簡単に考えている人がいるのです。自分から主の御前に近づこうともがき苦しむことをしないのです。いいですか?自分で自分を鞭打たなくてはならないのです。そんなに生易しいものではないのです。」
私はこのメッセージを聞いて悔い改め涙を流しました。
私たちは少しくらい身体がだるいと、今日は礼拝を休もうか、家で寝ていた方がいいのではないか、と考えませんか?天気が悪ければ、教会までの道のりが面倒になったりしませんか?
こんなに乾く心をもって主にお会いしたいと望み、自分の力ではできずになんとかその方法をいつも考えて、やっとたどり着く方がいる一方で、です。
礼拝に出席する態度をもう一度見直して、点検してみましょう。
そして礼拝に出られることをもっと感謝しましょう。
もっと渇望する心をもってイエス様に会いにいきましょう。
そして私はもっと自分に鞭を打つことをイエス様の御名により宣言します。
そして、私たちがもっと成熟したキリスト者になることをイエス様の御名により祝福します。